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iPadでのエロゲプレイのススメ

雑記

結論:iPadでエロゲをする場合はSplashtop2がいい。

まずこのアプリの長所を挙げよう。


  • iPadでPCの音を聞ける
    • 壁の薄い部屋でも夜に寝っ転がってイヤホンで聞けるとか、PCと違う部屋でもプレイできるとか、ジップロックにiPad入れて風呂でまったりプレイできるとか。

  • 遠隔操作中PCのディスプレイを真っ黒にすることが可能

  • 同じLANネットワーク内だと多少ラグはあるもののコマ落ちのほとんどない滑らかな映像が受信できる。
    • 他のアプリだと立ち絵や背景がよく動くゲームは厳しい。

このアプリは数カ月前まで600円くらいしたのだが、最近無料化したようだ。アプリは無料であげるから家の外からアクセスしたければお金払ってね、というビジネスモデルにシフトしたらしい。家の中でエロゲをする、という用途に限って言えばそれで全く問題ないし、もし万が一外でiPadを使ってエロゲをしたいなら、TeamViewerを使うといい。こちらはLANネットワーク内での動作がSplashtopに及ばない代わりに、外からでも無料でアクセスできる。試したことも試す気もないから確かなことは言えないが、流行のLTEとかならそこそこ快適にプレイできるのではないか。

もう1つアプリを紹介しておく。同じSplashtopのXdisplayだ。こっちはiPadをサブディスプレイとして使うことができる。タッチにも対応していて、iPadをタップすることで画面内をクリックできる。ちなみに無料のように見えるが、10分以上(多分)使う場合は450円払わなければならない。上のアプリと同様音も転送出来てこれはこれで便利なのだが、有料であることとバックグラウンドでの動作に対応していない(他のアプリに行くと接続が切れてしまう)ことがネック。iPadをサブディスプレイ化するアプリは他にも無料のもの含めあるので(使った範囲では音が転送出来なかったり自分の環境だと不安定で使い物にならなかったりしたのだが)試してみるといいかもしれない。

ちなみにリモートデスクトップ系アプリ、少なくとも今回紹介したSplashtopとTeamViewerはういんどみるゲームエンジンCatSystem2との相性がどうも悪く、クリックがうまく認識されない。その場合はフリックの要領で画面を軽く撫でながら突付くとクリックとして認識される。どうでもいい話だが、よく動く上にCatSystem2を使っている「プリズム◇リコレクション!」はリモートデスクトップアプリとの相性がかなり悪いゲームということになる。Splashtopだとさほど問題ないものの、TeamViewerだとカックカクでせっかくの立ち絵芝居が見られたものではない。コマ落ちするくらいならいいのだが、ひどいと画面の上から下にだんだん画像のロードが進んでいくという90年代感溢れる光景を目にする羽目になる。

以上、本題終わり。以下おまけ。

なんでこんなことを書いたかというと、先週か先々週ぐらいに「最近のエロゲって長すぎねぇ?」みたいな話が局所的に盛り上がってたんですよ。エロゲの衰退話と結びついて、もっと手軽に楽しめるアニメとかソシャゲにみんな流れていっちゃったよねみたいな話も出ている。

確かにエロゲは長い。エロゲ1本20時間としてアニメ4クール分、つまり1年分である。アニメが1クールであれだけの威力を持つ(Twitterラブライブとかビビオペに狂ってる人を思い浮かべながら)のだから、20時間も要るのかという話になってもおかしくはない。

しかし、エロゲを「長い」という人にとって、「エロゲの長さ問題」という言葉に還元できるほど純粋に「長さ」だけが問題なのだろうか。だって20時間って1日40分やれば1ヶ月で終わる量ですよ。実際には土日にある程度まとめてプレイするだろうから平日に割く時間はもっと少なくて済む。例えば今月だと土日があわせて10日あるので土曜日と日曜日に2時間ずつプレイするだけで1本コンプできてしまう。毎月何本も買う人はともかくとして、月1~2本だったら趣味の時間としては十分一般的な域に収まるだろう。これより長い時間まとめブログ巡回とかソシャゲに費やしてる人絶対いっぱいいるでしょ。

にも関わらず「長さ」が問題とされる、その理由はエロゲの「面倒さ」にあるのではないか。エロゲからの「乗り換え先」としてよく挙げられるアニメ・ラノベ・漫画・ソシャゲといったものと比較すると、エロゲはいかにも「面倒」なメディアなのだ。

まず第一に外でプレイできない。これは倫理的にもそうだが、物理的にもそうだ。外でできないどころか自分の部屋のPCの前という場所まで指定される。まあ今回紹介したようなソフトやラップトップを使えば物理的問題は大体解決するのだが、だからと言って通勤通学電車の中で、あるいはスタバでエロゲをやろうという人はほとんど居ないだろう。これだけならアニメも似たようなものなのだが、エロゲの面倒さは他にもある。

第二にエロゲは「ながらプレイ」に向かない。エロゲは主人公に声がないのが普通で、あったとしても地の文は読まなければならない。したがって作業用BGMのように後ろで流しっぱなしにしておく訳にはいかない。そんな訳でウインドウを前に持ってくるとここ数年で大画面化した1280*720のウインドウが画面を占拠する。このサイズだと、画面の端に置いてオートモードで流しながら他の作業をするということはほとんど不可能になる。サブディスプレイがあればよいのだが、持っている人はそう多くない。知っての通りアニメは「実況」のように他のことをしながら観ることも可能だし、ものによっては声だけ聞いていてもそれなりに楽しめる。ラブライブとかね。

スマホじゃダメで家のPCの前に座ってずっとそれだけに目を向けていなければいけない。ここまで要求するものって今時PCゲームかあるいは社会人の仕事や学生のレポートくらいしかないのではないか。これだけならPCゲームや、PCをテレビに置き換えればTVゲーム全般に言えることなのだが、「面倒」の第三として、エロゲはこれだけ要求しておきながら結局ほとんどのゲームのほとんどの部分は機械(オートモード)に任せられるくらいしか「遊ぶ」余地がないのだ。オートモードで流していたらいつの間にか寝ていて、起きたらスタッフロールも終わってトップ画面が表示されていたという経験があるエロゲーマーは多いのではないか。

要するに、これだけの面倒さを強いておいて見るのは紙芝居なのかよ、という話になる。だからといって紙芝居じゃなくて「ちゃんとしたゲーム」を作りましょう!と言う訳にもいかない。「ちゃんとしたゲーム」が作れるメーカーは僅かだろうし、そもそもユーザーもそんなことは求めていないだろう。なので「面倒さ」を軽減しようということになる。そう考えたとき最近普及しつつあるタブレットでエロゲをやるというのは結構いい手段に思える。寝っ転がりながらプレイすることもできるし、特にサブディスプレイ化した場合「ながらプレイ」もしやすくなる。メーカーが特になにかする必要もなく、ユーザーの側で勝手にできるというのもよい。もっとも今はまだこんな面倒なことをしなければならないし、iPad上で動くエロゲがAppStoreで販売されることは未来永劫無いだろうが、あと2~3年もすればWindowsタブレットがそこそこ安くなりそこそこ普及しているだろう。そうなればエロゲは今よりずっと「面倒」なものではなくなるはずだ。Windowsタブレットが普及した時のことを考えると、随分前から議論されてる割に全く実現しそうにないエロゲ版Steamについても、PCとタブレットで同じエロゲをプレイできるという新たなメリットと必要性が出てくるだろう。エロゲの楽しみ方は今よりもっと多様でありうるのではないか。

「薄目の悲劇」の治療法

雑記

※「薄目の呪い」の意味がわからないエロゲーマー、エロゲーマーになる予定の人はここから先は読まないことを強くお勧めします。本当に!

エロゲーマーの間では割と有名な「薄目の呪い」ですが、大手まとめサイトが取り上げたことでまた罹患者が増えているようで。

観測範囲内では1年以上前、>>9で画像が貼られているStrawberry Nautsの発売前後から散々話題になっていたので、メーカー側が認識していなかったということに驚いた。だけど考えてみれば、多くのメーカーの人は2chを見に行くことを避けるだろうし、とすれば知らなくても当然ですね。

さて、薄目の呪いについて。この呪いは本当に強力で、一度気づいてしまうと半永久的に効果が持続します。罹患の簡単さとは裏腹に、自分で解こうと思っても簡単に解けるものではない。Strawberry Nautsは薄目さえ無ければ買いたかった…。ともあれ今のところ、この呪いの治療法は確立されておらず、不治の病に近い。克服したという人の話を読み聞きしても、「気合」とか「愛」とか「慣れ」とか新聞広告に載ってるガンの治し方みたいな答えしか返ってきません。

そこでこの度、ある程度理論的な方法でなんとか8割方呪いを克服できたので方法を紹介します。ひとりでも多くの人がこの呪いから抜け出せますように。

錯視であることを認識する

薄目の呪いは錯視です。そのことをまずは認識しましょう。反転図形の一種と考えてよさそうです*1。有名な反転図形にはウサギとアヒルや、ルビンの壺などがあります。

しかし薄目の呪いはこれらと違って、ウサギに見えたりアヒルに見えたりするのではなく、「どんなに頑張っても薄目にしか見えない」という状態です。これはなぜかというと、おそらくウサギアヒルや壺の絵は視点を集中する場所によってどちらの図形を見るか操作できるのに対して、薄目はまつ毛と反射光(白目)の位置が密接しているためにそのような自由が効かないからではないかと思います。

薄目の呪いのように、一度そう見えてしまうと元の認識に戻りにくい性質を持つ反転図形として、このようなもの回るバレリーナの錯視などがあります。これらの錯視で意図的に認識を反転させる(グレーを抽象的な図形として見る*2、回転方向を逆にする)訓練を行うことは、薄目の呪いを解く上で役立つでしょう。

認識枠組みを書き換える

このような反転図形がなぜ成り立つかといえば、よく知られているように我々は網膜に映ったものをそのまま認識するのではなく、先行して持つ認識枠組み=スキーマに基いて解釈するからです。(∵)←これが顔に見えたり、火星で人面岩が発見されたりするのも、それらを「顔」という枠組みで解釈しているからですね。

薄目の呪いを治す上で書き換えなければならない認識枠組みとは、大半の人があの誇張された画像で刷り込まれたであろう「この白はまつ毛の反射光ではなく白目だ」というものです。これを元に戻すにはどうすればいいか。Strawberry Nautsの画像を「反射光…反射光…」などと呟きながら睨んでも恐らく呪いが再強化されるだけでしょう。なのでここでは、ある程度呪いから距離がありつつも目という枠組み上の共通点がある*33次元の画像を用います。Google画像検索で"closed eye"と検索して下さい。いくつかの画像ではまつ毛で光が綺麗に反射してますね。まつ毛では光が反射します。このことをいくつも画像を見てしっかり認識して下さい。まつ毛で光が反射するということを、知識として理屈として知っていても、じっくり見て確固たる認識にまで高めている人はほとんどいないと思います。この機会にしっかり認識して下さい。まつ毛では光が反射します。こうすることで、認識枠組みにおけるまつ毛の反射光の優先度を、我々が普段見慣れている白目のそれに近づけることを狙います。まつ毛では光が反射します。

おわりに

さて、ここまで済ませた人は>>72の画像を見てみてください(Strawberry Nautsの画像は難易度が高いので…)。このくらいなら気にならなくなっているのではないでしょうか。もしそうでなければ、反転図形の訓練と反射光の自分への言い聞かせを繰り返してみてください。

ここまで書いておいてアレですが、自分でもStrawberry Nautsの薄目を克服するまでには至っていません…。訓練を重ねていけばいつか克服できるのかもしれませんが、もし「この方法で呪いから抜けだした」等ありましたらぜひ教えてください。

追記(2/15 0:29)

ホッテントリ入りしてた…。ブクマ&ブコメでのアドバイス等ありがとうございます。

ここまで多くの人に読まれるとは思っていなかったので、エロゲをやったことがない人向けに補足を少し。エロゲの立ち絵がもつ特殊性のひとつは、動的でありながら静的であるという点にあります。クリックしてセリフを進めるごとに表情が変わるとも言えるし、逆に進めない限り表情が変わらないとも言える*4。これがどっちか片方に決まっていれば、こんなことで悩まずとも済むでしょう。例えばアニメでコンマ数秒薄目のカットが映っても気にする人はほとんどいないでしょうし、逆にエロゲーでもイベントCGの一枚絵やあるいはマンガのように完全に止まっていれば心を落ち着かせて対処することもできるでしょう。立ち絵の厄介さはここにあります。人の目には力があるので、立ち絵においてもプレイヤーは大抵の場合キャラクターの目に特に注意を向けています。キャラクターが目を開いている限りは問題なく安心して見ていられるのですが、ある時クリックした瞬間いきなり「薄目」が牙を剥きます。クリックして「あはは」等の文章が表示されるのと、立ち絵が笑うのは同時なので多くの場合予測不可能です。さっきまで普通に話していた彼女が突然キモい顔になるのは辛いんですよ…ほんとに…。

*1:反転図形を錯視に含めることに違和感がある人もいるかもしれませんが、素人の書くことなので軽く流してください…

*2:これは恐らく薄目の呪いから抜け出すよりも難易度が高いです。なぜならグレーの部分は、「白目-反射光」や「左回転-右回転」のような記号的意味を持たないからで、逆に言えばそれだけ練習に有用だということにもなります。

*3:目という認識枠組みさえも崩壊していれば白目か反射光かで苦しむこともないでしょう…

*4:これに当てはまらないゲームもありますが大半はそうです

世界の終りと#FF0000の倫理――コーマック・マッカーシー『ザ・ロード』

感想

コーマック・マッカーシー『ザ・ロード』を読んだ。この作品は(おそらくは核兵器で)滅びた世界において、父である「彼」とその子の「少年」が冬から逃れるため南の海へ向けて旅をする、ただそれだけの話である。しかし、だからこそ、心に響く。本稿は、作中における色彩表現を通して、この作品が描く倫理に接近することを目的とする。以下では(これまでのエロゲ批評とは違って)未読の人にも配慮していますが、批評の性質上ある程度のネタバレは含みます。

■ ■ ■

この作品の世界観とそれを語る独特の文体については、長々と説明するよりも冒頭を読んでもらうのがいいだろう。

 森の夜の闇と寒さの中で目を醒ますと彼はいつも手を伸ばしてかたわらで眠る子供に触れた。夜は闇より深く昼は日一日と灰色を濃くしていく。まるで冷たい緑内障が世界を霞ませていくように。彼の手はかけがえのない息に合わせて柔らかく上下した。合成樹脂の防水シートを身体の上からのけ悪臭をはなつ服と毛布をまとった姿で立ちあがって少しでも光が見えていないかと東に目をやったが光はなかった。(5)*1

空は常に灰色に覆われ、人間には滅多に出会わない。たまに出会ったとしても彼ら以外の多くは「ホラー映画に出てくる歩く死人」(50)のように成り果てている。そんな作品全体を貫くキーワードとして、「善い者」(いいもの、原文では good guys)と「火を運ぶ」という2つがあり、そして両者は繋がっている。

 ぼくたちは誰も食べないよね?
 ああ、もちろんだ。
 飢えてもだよね?
 もう飢えてるじゃないか。
 さっきは違うことをいったよ。
 さっきは死なないっていったんだ。飢えてないとはいってない。
 それでもやらないんだね?
 ああ。やらない。
 どんなことがあっても。
 そう。どんなことがあっても。
 ぼくたちは善い者だから。
 そう。
 火を運んでるから。
 火を運んでるから。そうだ。
 わかった。(114-5)

果たして善い者であるとは、火を運ぶとはどういうことか。

■ ■ ■

この作品を切実で倫理的たらしめている理由のひとつとして、色彩、とりわけ火の色である赤とオレンジ(以下、まとめて〈赤〉と表記*2)への感覚が挙げられる。英語で書かれたものも含めてこの作品について書かれた批評を調べてみたところ、多くの批評はこの点への言及を欠いていたが、色彩の象徴的効果に着目したものとして、Lidberg, Cecilia[2010], What is left when we're at the end of the world?: can Cormac McCarthy offer any kind of hope in his apocalyptic novel The Road?, p.12-3.*3 があった。Lidbergはまず冒頭部の、父が見つけた缶入りのコカ・コーラを少年に与える場面(21-2)に着目する。

 コカ・コーラ缶の発見はごちそうと喜びの短いひとときをもたらす。少年はたとえそれまでの人生でコカ・コーラ缶など目にしたことがないとしても、それがなにか特別なごちそうであることを理解するのである。その一方で、彼の父にとってそれは失われた世界を思い出させるリマインダーでもある。缶の明るい赤については一言も触れられていないが、しかし読者の頭の中には暗く灰色めいた世界との明確な対比が描かれる。赤という色は、短い喜びのひとときを彼らの生活に与えるだけではなく、歴史を通して炎の色として力や重要性と結びつけられてきた。コカコーラ缶の発見と赤という色の象徴的意味は、どこかに彼らのための未来があるかもしれないことを示唆している。その一方で、マッカーシーコカ・コーラをリマインダーとしても用いることで、私たちが自分たちに対して行ってきたことに対しても疑問を投げかけている。私たちの行いは幸せと喜びであったのだろうか? それとも本当の中身などない表面的な生でしかなかったのだろうか?(Lidberg 2010: p.12)*4

Lidbergはこの後、〈赤〉が現れる別の場面も引用して、そこにおいても生の問題が現れていると主張している。ここでLidbergの象徴的読解の当否について踏み込むことはしない。しかし、この〈赤〉という色がこの作品において重要な役割を担っていることは確かである。以下ではLidbergより内在的な方法で『ザ・ロード』における〈赤〉について考えてみたい。

■ ■ ■

しかし作中で〈赤〉という色が直接言及されることは、火や炎以外についてはかなり少ない。ほとんど禁止されていると言ってもよい。このことは恐らく意図的であろう。その根拠のひとつとして挙げられるのが、彼が見る夢である。

 夢の中で彼の青白い花嫁が緑の葉むらの天蓋から出てきた。乳首には白い粘土が塗られ肋骨の形が白い塗料でなぞられていた。紗織りのワンピースを身につけ黒髪は結いあげて象牙や貝殻の櫛で留めてあった。微笑を浮かべて目を伏せていた。朝にはまた雪が降っていた。灰色の氷の小さな球が頭上の電線に並んでいた。(17)

彼は「たいそう色彩豊かな夢、これが死の呼びかけでなくてなんだろう」(19)と問う。この色彩はやはりコーラの缶と同様に、灰色の世界と鮮やかな対比を描く。しかしここで注目しなければならないのはその鮮やかさよりむしろ、これほど「色彩豊か」であるにも関わらず〈赤〉が存在しないという点である。論点を先取りして言えば、この「死の呼びかけ」じみた夢に〈赤〉が現れないのは必然性を持つ。

他にも例は挙げられる。〈赤〉を持つものとは何があるだろうか。たとえば太陽、たとえば血、たとえばリンゴ。しかし太陽は先に見たようにいまや灰色めいた光をぼんやりと放つことしかできない。そして血についても、「彼」が喀血しようとも、「彼」が銃で男の額を撃ち抜き血が「少年」に降りかかろうとも、「赤い血」という表現は用いられずコーラと同様端的に「血」と書かれるのみである。唯一血の色が描かれるのは男を撃った現場に戻って「落ち葉に黒くこびりついている乾いた血」(64)を見つけたときのみである。そしてリンゴもこの世界では〈赤〉などとうの昔に失っている。

林檎園を上り始めて途中で足をとめた。なにかを踏んだようだった。一歩下がって膝をつき両手で草をかき分けた。林檎だった。拾い上げて陽のもとに掲げた。固く茶色くしなびていた。布切れで拭いて歯を立ててみる。ぱさぱさでほとんど味が無い。それでも一応林檎だった。種からなにから丸一個食べた。(108)

■ ■ ■

では、〈赤〉はどこにあるのだろうか。

 つねに思慮深くどんな突拍子もない出来事にも滅多に驚かない。みずからの滅亡を用意できるほど完璧に進化した生物。二人はバスローブ姿で窓辺に坐り蝋燭の明かりで真夜中の食事をしながら燃えている遠い都市を眺めた。その幾夜かのち彼女は乾電池式のランプの明かりを頼りに夫婦のベッドで出産した。食器洗い用の手袋。小さな後頭部が現れたときのありえないような光景。血にぬれた黒い直毛*5。胎便の異臭。彼女の叫び声は彼には何の意味もなかった。窓の外には募る寒さと地平線上の炎があるだけだった。生々とした裸の赤い身体を持ち上げて料理鋏でへその緒を切りタオルで息子をくるんだ。(54-5)

この一節はこの作品における〈赤〉を象徴している。それは都市を飲み込む炎である。血である。そして何より〈生〉である。ここで「赤い身体」と明記されているのは決して偶然や気まぐれではない。それは次の場面と対比することでよりいっそう明確になる。
以下は自分たちの跡をつけていた、妊婦を含む集団を隠れてやりすごし、逆に彼らのたき火の煙を目印に偵察へと来た場面である。

 二人は手をつないで小さな空き地に出ていった。ここにいた者たちはなにもかも持って行き炭火の上で串刺しにされている黒いものだけを残していた。彼が空き地の周辺に警戒の目を配っていると少年がぱっと首をめぐらして顔をうずめてきた。何事かと彼は急いで見た。どうした? なにがあった? 少年は首を振った。パパ、といった。彼はもう一度見てみた。少年が眼にしたのは首を切り落とされ内臓を抜かれ串に刺されて黒く焦げている人間の赤ん坊だった。(181)

ここで〈生〉の色としての〈赤〉と死の色としての黒が対比されているのは明らかであろう。しかし〈赤〉を〈生〉の象徴として平面的に解釈すべきではないことは、先の出産の場面における「燃えている遠い都市」「地平線上の炎」と反復された死のイメージをまとう表現、そしてこの赤ん坊もまた火に焼かれていることから理解できる。この〈赤〉の多義性は次の場面を読むことでよりいっそう明確になる。

 彼は朝眼を醒ますと毛布の中で身体を転がし木立のあいだから自分たちがやってきた道路を眺めるとちょうど四人の人間が横一列に並んでやってくるのが見えた。服はまちまちだが四人とも首に赤いスカーフを巻いていた。色は赤かオレンジ色でオレンジ色だとしても限りなく赤に近かった。彼は少年の頭に手を載せた。しーっ、といった。
〔…〕彼は地面にぴたりと伏せて腕先越しに道を見つめた。スニーカーを履いた一群がやってきた。長さ三フィートの鉄パイプに革を巻きつけたものを手にしていた。鉄パイプにとりつけた紐を手首に巻いている。鉄パイプの中には内部の空洞に鎖を通しその鎖の先に色々な攻撃道具をとりつけたものもあった。〔…〕続く密集隊形を組んだ男たちは帯状の布を飾った槍で武装していた〔…〕そのうしろからやってくる数台の荷車は身体に引き具を着けた奴隷たちがひき戦利品を山積みにしており次に続く女たちは恐らく十数人いて中には妊娠している者もいたがしんがりは女たちを補う性の奴隷である稚児たちでこの寒さの中でもろくな衣服を与えられず犬の首輪を着けられ二人ずつ首輪を繋がれていた。その行列が通過していった。二人は伏せたまま耳をすましていた。
 行っちゃった、パパ?
 うん、行ってしまった。
 パパは見た?
 ああ。
 悪者だった?
 そう、悪者だった。
 悪者、おおぜいいたね。
 おおぜいいた、でももう行ってしまった。(81-2)

「四人とも首に赤いスカーフを巻いていた。色は赤かオレンジ色でオレンジ色だとしても限りなく赤に近かった」という表現は、これまで見てきたように〈赤〉が厳しく制限されているこの作品にあってほとんど異常である。ここでは出産の場面で〈赤〉と〈生〉が結びつけられたのと同程度ないしはそれ以上の強度で「悪者」と〈赤〉が結びつけられている。

■ ■ ■

この〈赤〉の多義性は、火の両義性を内包している。火の両義性とは、訳者あとがきで黒原敏行も指摘しているが、彼らがたき火によって暗黒の夜に光と暖を得る場面は何度も描かれている(また、色々な理由で火を得られず凍える場面も繰り返し訪れる)が、他方この終末をもたらしたものも(おそらくは)核兵器という火であるという点に端的に表れている。

にもかかわらず、「火を運ぶこと」と「善い者」であることは接続される。なぜか。

いや、この問いは成立しえないのだ。「少年」にとって、「火を運ぶこと」と「善い者」とは分かちがたく結びついている。それは結末部における「男」との会話からも見て取ることができる。したがって、ここで問うとしたら、「火を運ぶこと」と「善い者」が接続されるような倫理のあり方はどのようであるか、といったことについてであろう。この問いへの答えは読者がそれぞれに持ちうるだろう。ここで指摘しておけることは、火すなわち〈赤〉が決して一義的なものでなかったように、「善い者」であることも決して一義的なものにはなり得ないだろうということである。「善い者」であることが「火を運ぶこと」であり、「火を運ぶ」ことが「善い者」であるような関係。両者は互いに関係しあう。希望とはこの関係にこそ見出すことができるのではないか。

■ ■ ■

さてこそ以上、『ザ・ロード』の〈赤〉と倫理についての考察はこれで終わりである。いろいろな〈赤〉について書いたが、他の色や火の〈赤〉についてはあまり詳しく触れることができなかった。Lidberg(2010: p.12-3)は青の象徴的意味に関しても考察を行っているので興味のある人はそちらを読んで欲しい。

■ ■ ■

WA2のエントリを読んで知ってくれた人でここまで読んでくれる人は果たしているのだろうか。ここまで読んでくださった方には最大限の感謝を。
Twitter(@otoQt)は一心上の理由で休業してますがhttp://tasoga.re/というWebチラシの裏でいろいろ書いてます。よろしく。

*1:以下カッコ内に数字のみで『ザ・ロード』邦訳のページ数を示す。

*2:作中でたき火はオレンジ色で表される。しかしここでは赤とオレンジの積極的な区別を行わない。区別による恩恵より、区別しないことのそれのほうが大きいと考えられるためである。また、Lidbergもこの区別を積極的には行っていない。

*3:http://epubl.ltu.se/1402-1773/2010/044/index-en.html

*4:あまりうまく訳せてないので可能なら原文にあたってください

*5:この一節は前後との関係を鑑みても「彼」が「少年」の誕生に立ち会った場面と考えるのが自然である。しかし注意深く読めば、「少年」の髪を切った際、「床に落ちた金色の髪」(135)という表現があることに気付く。この不整合とみられる箇所を埋めるにはいくつか方法が考えられるだろうが、もっともこの新生児が誰であれ論旨にはほとんど影響しないと思われるので、この点についてはこれ以上深入りせず指摘のみに留めておく。

プレイヤーを殺すための物語――『White Album 2』

感想

  つらい、とてもつらい作品だった。死にたくなる。おかげで終わらせるまでに5ヶ月ほどかかってしまった。つらくてゲームを進められなくなった経験はこれが初めてだったのだけど、もう当分こんな経験はしたくない。しかしここまで死にたくさせる作品が素晴らしいことは言うまでもない。以下ではこの死にたさについて少し考えたい。当然ネタバレを含みます。(酔った勢いで書いてるのであとでいろいろ修正するかもしれません)
 

この死にたさはどこからくるか

 この作品の特徴としては死にたくなるということが真っ先に挙げられるけれど、その一方で世間*1では「主人公に感情移入・共感できない」という意見もよく目にする。この作品のようなギャルゲー・エロゲーでは実際はどうあれ*2、理念的には主人公とプレイヤーの同一化が志向されていることは言うまでもない。にもかかわらず、主人公・春希の物語を読んでこうも死にたくなるのは何故なのか。

主人公への共感?

 そもそもこの作品は主人公とプレイヤーを同一化させようとしていないのではないか。例えばそれは主人公ボイスの存在に見て取ることができる。この手のゲームでは主人公のボイスは収録していない作品の方が圧倒的に多い。にもかかわらずわざわざウザいからオフにしたと世間でいわれるほど癖のある主人公ボイスを収録したのか。
 また、このいたたまれない作品中でもいたたまれなさで上位に入るであろう、かずさTrueルートにおいてそれまでずっと付き合っていると思わせていた雪菜の両親に春希が謝りに行く場面について考えてみても同じことが導き出せる。このシーンでは小木曽家で春希が雪菜の両親に謝罪する場面と、雪菜の両親に頼まれ彼女の友人の朋が雪菜をファミレスに引き留める場面が順繰りに描かれる。春希に同一化したプレイヤーに苦痛を与えることを目的としているならば、雪菜たちの会話が挟まれるたび同一化が中断されるこの演出は明らかに失敗である。にもかかわらず、このシーンはやはり「作品中でもいたたまれなさで上位に入る」。

書かれないセリフ

 この作品ではところどころで、セリフとしては「……」としか書かれていないのにボイスでは小声で喋っていたり、書かれたセリフは途中で切られているのにボイスでは最後まで喋っているという珍しい演出が用いられている。次はこの演出について考えてみたい。
 この手のゲームでしばしば見られる要素として、「難聴主人公」と「ヒロイン視点」というものがある。簡単に説明しておくと、前者は他のキャラクターが何か(たいていは主人公への気持ち)を小声で呟いたのに対し「え、何か言ったか?」などと返す主人公を揶揄する専門用語であり、後者はふつう主人公視点で物語が進むゲームにおいて視点を変えヒロインの行動や気持ちを表現する手法をさす。
 両者はまったく異なるもののように見えるけれど、実際はどちらも「主人公へ(明示的に)伝達されないことを根拠に、隠された〈ほんもの〉の情報をプレイヤーに伝える」という点で同じ機能を持つ。しかしこれらは両刃の剣である。プレイヤーはヒロインの〈ほんもの〉の気持ちを知ることが出来る一方で、主人公とプレイヤーとが持っている情報の差異はプレイヤーの主人公への感情移入を難しくする。これが鈍感難聴主人公がしばしば批判される所以と考えられる。
 上で挙げた謝罪の場面が「失敗」であったのはこのためである。さらに言えば、先に挙げた場面のみならず、主人公がいない場でのヒロインやサブキャラクター達の会話は、一般的な水準よりもおそらく多く相当の頻度で描かれている。ここで考えなければならないのは、そのように高頻度で「ヒロイン視点」が導入されることで、単なる情報の提示を越えた働きを持つようになるのではないかということである。
 最初に挙げた小声の演出に戻ろう。このときプレイヤーは上でみた難聴主人公の例などと同様に主人公から引きはがされる。しかし、その一方で物語へはより深く関わることになる。なぜか。ボイスで語られた言葉を物語の中に位置づけるためには通常よりも積極的な態度(聴き方)が求められるからである。つまりここでは、プレイヤーが持っている、物語を読み手として構築するという立場が顕著に表れている。

プレイヤーはどこにいるか

 つまりこの作品において、プレイヤーは一般的にギャルゲー・エロゲーで求められているように主人公に同一化することは拒否されつつも、物語に関わることを強要されている。ちなみに上であえて触れはしなかったが、この手のゲームでは当たり前の存在である「選択肢」も物語に関わらせるための道具として機能しているだろう。
 このときプレイヤーはどこにいるのか。もとより完全にメタな位置=〈作者〉の位置に立つことはできない。とりわけ初回プレイであれば〈作者〉の描いた自分がいまだ知らない物語を浴びせられるより他になく、オールクリアしたとしても物語を好きに書き換える自由は与えられていないからである*3。そして主人公への同一化は拒否されており、かといってヒロインに同一化するには主人公視点であることが邪魔をする。つまりこの物語の中でプレイヤーは宙づりな立場を強要されているといえる。

〈自己〉と〈わたし〉

 ところで、ここまで「プレイヤー」という言葉を無頓着に使ってきたけれど、実際はさらにふたつに分けることができる。実際に肉体を持ち、ディスプレイに向かい、マウスをクリックする、ゲームの内には何ら関わることができない〈自己〉と、物語の中で宙づりにされる〈わたし〉の二者として。そして〈わたし〉は物語内においてだけでなく、〈自己〉-〈わたし〉-物語(内の諸要素)という関係においても引き裂かれる位置にある。
 この作品、White Album 2におけるつらさとは、この〈わたし〉が引き裂かれるつらさではないだろうか。上では〈わたし〉が物語内で確たる居場所を持つことができないことを確認したが、どのキャラクターとも十分に同一化できないということはつまり、それぞれ場面においてそれぞれのキャラクターに同一化しうるということでもある。それは、この陰惨な物語においては、もっとも陰惨さを最大化する立場でもある。なぜなら、それぞれの立場にはそれぞれの正しさがあるが、いずれも〈わたし〉は確たる理由として信じることができないからである。
 そして物語内だけでなく、メタな視点から物語を読み、どのような仕方でも介入することはできないことを知っている〈自己〉と〈わたし〉の間でも分裂は起こる。先に「物語を読み手として構築する」と述べた。このとき〈自己〉のうちには〈わたし〉が物語を構築している。つまり、〈わたし〉が物語の中に巻き込まれ傷ついている一方で、〈自己〉は自らが〈わたし〉達を傷付けているがゆえに傷付くのである。

恋愛がつくる〈世界〉

 恋愛というものは定義上「内」と「外」という区別を必要とする。区別なく誰彼構わず恋愛する、ということはありえない。つまり恋愛はその過程でひとつの〈世界〉をつくる。このシステムのもとで、上で見た〈わたし〉の分裂は最悪の凶悪さを発揮する。
 〈わたし〉を傷付ける他者は〈世界〉の外からやってくる。つまり、〈わたし〉の〈世界〉から排除された他者が〈世界〉の内に侵入してきたとき、〈わたし〉は傷つく。例えばかずさルートにおいて春希=〈わたし〉とかずさの〈世界〉へと侵入してくる雪菜がそうであるし、逆に同じかずさルートでも雪菜=〈わたし〉の〈世界〉に春希は抗いがたい魅力を持って侵入してくる。
 つまりこの作品、White Album 2は「恋愛ゲームで〈プレイヤー〉を傷付けるにはどうすればよいか」という問いへの現時点で最良・最悪と思われる答えを提示している。本当に最高のつらい作品だった。こんな作品はもう当分いいです。

*1:TwitterのTLと購読しているいくつかの2chまとめサイトといくつかのレビュー

*2:世間でしばしば言われる「共通ルートが一番楽しい」といった見方にはヒロインとの共感が強く作用していると考えられたりするだろうけどそれはともかく

*3:ここでいわゆる二次創作に意識が至るのは当然であるけれど、「二次創作」の「二次」性を支えているのは「一次創作」が正典として機能しているからにほかならない。

物語をひらく――『すぴぱら STORY#01 Spring Has Come!』

感想

ちょこちょこ寝落ちを挟みながら丸一日程度で終了。感想ではあるかもしれないけどレビューではない。
公式サイトにはろくに情報出てないし体験版は本当に体験できるだけだし、何の話なのかもわからずほとんどOPのアリスが可愛かったから買ったようなものなのですが結果的に大正解でした。以下ネタバレを含みます。


この物語のメインテーマのひとつは「記憶」でしょう。魔女アリスは、幸せな記憶を代償に願いを叶える。
記憶は――そうであるという実感には反して――決して個人的なものではありません。それは例えば自分が育った国の「歴史」といった大きなものだけではなく、私的な記憶にも当てはまります。例えば過去の出来事を、当時ともに体験したはずの相手と話しながら「思い出す」という体験に端的に表れているでしょう。そのとき記憶は、どちらか一方の脳内からのみ取り出されるわけではなく――まして「出来事自体」を参照するわけでもなく――間主体的にリアルタイムで紡がれていると言うことができます。こうした記憶の間主体性は、ミスコンを成功させるために魔法に頼り、そのために成功したミスコンという幸せな記憶を失った幸成の独白からも読み取ることができます。

まあ、ミスコンの記憶は全て失われているけれど、胸の中にはあたたかいものが満ちている。
忘れてしまったことがあっても、楽しかった時間そのものが消えたわけではない。
僕が忘れても、みんなは覚えてる。
桜さんは覚えてくれている。
だから――これでよかったのだと、本当にそう思う。

ここで「楽しかった時間そのもの」が存在する根拠として、みんなの、そして桜の記憶が挙げられていることは注目すべきでしょう。
ところでこの「みんな」に、プレイヤーを含めることもできる、という解釈は強引でしょうか。そう解釈することで、あるいはそうでなくても、他の誰でもないこの桜が覚えているということを出来事の根拠にすることで、いわゆるKanon問題――特定のヒロインのルートに入ることは他のヒロインを不幸の中に放置することではないかという問題――に対してひとつのアプローチが可能なのではないかと思いますが、この問題についてはきちんと議論を追っているわけではないので深入りしません。

記憶が失われる、という設定は同じminoriの作品である『ef』の千尋を思い出さずにはいられません。13時間以内の記憶を想起できないという症状を持つ千尋が取っていた戦略は二つ、13時間の記憶を失わないうちに絶えず出来事を想起することと、出来事を手帳に書き記すこと。しかし、『すぴぱら』ではほたるも幸成もその戦略は採用していません。記憶そのものが持ち去られてしまうので一つ目の戦略は取りえないとしても、とりわけほたるは、忘却した出来事を言葉で表されること自体を拒否しているように見えます。

「朝早くに家を出たことまでは覚えてるわ。で、次の記憶があなたの妹さんと昼食を作っているところなのよ」
「……午前中の記憶がほとんど消えてるね」
 数分、じゃなくて数時間単位で消えてしまっている。
「じゃあ、ほたるさんが朝から僕のところに――」
「待って。そこから先は言わないで」
 ほたるさんは真剣なまなざしを向けてきて、僕はなにも言えなくなってしまう。
「知りたくないのよ。だって――もう絶対に思い出せないことだから
 忘れたままにしておくのがいいのよ。幸成には悪いかもしれないけど……」

「思い出す」ことと「言われる」ことのギャップ。ここで前提とされているのは、ある過去を他者に伝える際に必然的に用いることになる、言語の不自由さではないでしょうか。これまで多くの文学者・言語学者・哲学者や社会学者などが指摘してきたように、言葉は決して透明な存在ではないし、自分が他者に何かを伝えるために存在するわけでもありません。そして記憶は言語の制約を受けざるをえない。
日記という形では残しえない、残しきれない剰余としての記憶。
こうした記憶の共有/分有の(不)可能性というのは、これまでトラウマと呼ばれるような負の記憶について論じられることが多かったのだけど、幸せな記憶についても同じことは言えるはずです。
そして、「物語」もまたその限界に留まらざるをえない。

エンタテインメントとは、心を動かすもの。
そして、心を動かす、感動する、という結果をもたらすアプローチは、ひとつだけではありません。
その中でminoriがこれまで探求してきたのは、前述の「“ 物語 ”としての世界が、“ 人と心 ”を動かす」感動を最大限に引き出そうというものでした。
そうした方向から創り出した作品でも、最終的に人が感情を動かされるのは、“ 人と心 ”が織り成す部分に他なりません。
それなら「“ 人と心 ”が、“ 物語 ”と世界を動かしている」という、ある種、逆のアプローチからのメッセージを、よりストレートに追求 / 表現し、形にできないだろうか。
そして、それこそが心を動かす、純粋な塊となり得るのではないか。

これが本作『すぴぱら』で、目指すものです。

http://www.minori.ph/lineup/sppl/lineintro.html

物語を作るということは、ひとつの〈世界〉を作るということでもあります。物語の限界を越えるためのひとつの手段として、その〈世界〉もまた、作り手と受け手の間にあらわれるものだと考えることはできるでしょう。東浩紀が『コンテンツの思想』で指摘した、『Wind』のOP冒頭における「悪質な感情移入装置」としての無意味な風景カットの連続というテクニック。「感情移入」とは作品に属するものでも、受け手に属するものでもない。この技法が今作のOPでも引き続き用いられているのは、そうした意識によるものかもしれません。
Twitterの活用や演出を見るに、物語を閉じることなく、作り手と受け手の相互行為の場として開くこと、これこそが『すぴぱら』が目指すものなのではないかと思いました。

ここまでべた褒めだったけど収録されていたOPが高画質版でなかったのはつくづく残念。しかしそれを差し引いても良いものでした。

クラブの社会学・前哨戦

社会学

引きこもってて暇だしクラブについて「好きなもの研究」でもするかーってことでちょこちょこ文献読んでます。こんなことやってるよって報告と自分のための整理を兼ねて文献の感想をば。

増田聡、2005、『その音楽の〈作者〉とは誰か――リミックス・産業・著作権』みすず書房

激ヤバ鬼マスト!クラブミュージックへ社会学的にアプローチするなら必須文献といえるのでは。2006年以降に書かれたクラブ論文でこれが引かれてないとちょっと構えてしまう。ここに詳しいことは書かないけれど、今回書く論文はこの本に大きく依ることになりそう。以下簡単に要約。

第I部でまずサラ・ソーントンの「ディスク文化/ライブ文化」という理念型を用いて、クラブミュージックの特異性について説明する。ロック・ポップスやクラシックなど「ライブ文化的」な音楽とは異なり、「ディスク文化」に属するクラブミュージックでは実際の演奏ではなく、スタジオでサンプリング・構築された「リアルな」サウンドこそが真正性(アウラ)の源となる。その制作行為はDJが行うパフォーマンスと「レコードを切って再構成する」というレベルにおいては連続的な行為だといえる。またリミックスにおいて冠される作者名について、オリジナルと全く別物になっていても、あるいは「作者」の作業がほとんどリミックスに反映されていなくても作者名は維持されるという点にクラブミュージックと従来の作者概念との折り合いの悪さがある。
第II部ではその従来の作者概念とはどのようなものだったのかを、音楽産業と著作権から論じる。ここは今回の興味と外れるので簡単に。西洋近代の芸術音楽の伝統をくむ語彙を用いて五線譜に表されうる形式構造について語るか、印象批評的な語彙を用いて聴覚像に対する比喩的な形容を用いて語るか、といった形でしか同定し得ない不確かな音楽という対象を、確かな一個のものであるように扱うための術がたとえば著作権制度である。
続いて第III部では、第II部を踏まえ、作者の機能――バルトが殺した「作者」とは誰だったのか――を論じる。バルトにせよ、バルトの作者概念がロマン主義的イデオロギーを抱えているとする批判者にせよ、「作者」がさまざまな関係を「作品」に対して結ぶ「単一の個人」であるという点には疑いを持たない。しかし実際には、クラブミュージックに限らずポップスにおいても――たとえば「作者」としてのバンドの他にバックバンドが加わりエンジニアがあるテイクと別のテイクを職人的作業により接続し「作品」を成立させた場合のように――「単一の個人」としての「作者」は仮構の存在であることが多い。そこにあるのは、フーコーが挙げた作者の諸概念「署名・所有関係・帰属関係・語りの主体」の分裂である。「単一の作者」とは、署名する「作者」や語る「作者」の姿を、「作品を帰属させる作者」へと事後的に還元させる言説的操作の産物でしかない。これが「拡散する〈作者〉」の現状である。

どうでもいいけど、この第I部で対象のジャンルを説明し、第II部で生産について、第III部で消費(増田本の場合、消費者にとって作者はどのようにあらわれるか)について論じるスタイルは、フリス『サウンドの力』かアドルノ「ポピュラー音楽について」あたりが元ネタなのではって気がする(どちらも参考文献に入っている)。

木本玲一、2005、「文化製品の流用をめぐる考察――DJ文化におけるサンプリング・ミュージック、オタク文化における二次創作を事例に」『ソシオロゴス』29: 250-263。

〈生産/消費モデル〉から〈生産=消費モデル〉への作者の立場を論じる点で上の増田本と基本的に同様の立場。確か動ポモの時点でサンプリングとかリミックスとか言ってたような気がする(あいまい)し、この2つの文化の類似性はまぁ。

藤田真文編、2011、『メディアの卒論――テーマ・方法・実際』ミネルヴァ書房

ある音楽アーティストの大ファンでCDを全て持っているので、卒論テーマに選んだ。ところがいざ書きだそうとすると、アーティストの楽曲が感動的だということ以外のことが書けない。原稿用紙二枚くらい書いて、すぐに筆が止まってしまった……ということになりがちです

前書きのこれがあるあるすぎる。Twitterでこの部分の引用が流れてきて読むことにしたのでした。個人的にはもうちょっとぽわっとした理念的なところを多く書いて欲しかったけど、これから卒論を書かなきゃいけないという人たちには有用な本であると思う。

南田勝也・辻泉編、2008、『文化社会学の視座――のめりこむメディア文化とそこにある日常の文化』ミネルヴァ書房

第I部「文化のとらえ方」、第II部「のめりこむメディア文化」、第III部「そこにある日常の文化」という構成の時点で勝ち。散漫になりがちな(島宇宙化しがちな)メディア研究に見通しを与えることに成功している。各論的な論文もそれぞれ第I部の総論との位置関係を考えつつ書かれているようで、「で?」という元も子もない疑問が浮かびにくい。
この中に含まれている永井純一「なぜロックフェスティバルに集うのか――音楽を媒介としたコミュニケーション」はロックフェスについての論文だけど、クラブカルチャーについて論じる際に批判的に引用することでクラブの特性をクリアに描けそうな気がする。

佐藤健二吉見俊哉編、2007、『文化の社会学』有斐閣

上記『視座』の類書。総論は総論、各論は各論で面白いのだけれど、総論と各論間・それぞれの各論間での繋がりが見えにくいという点で『視座』に及ばないように思う。しかしそれぞれの論考には力があり、特に編者二人により書かれた第1章「文化へのまなざし」と、田仲康博「風景――エキゾチック・オキナワの生産と受容」は興味深く読むことができた。

Adorno, Th W, 1962. =1999、高辻知義・渡辺健訳『音楽社会学序説』平凡社

すごく……エリート主義です……。永井論文を読む限りでは、クラブミュージックを触媒として「構造的聴取」と「断片的聴取」に対するディコンストラクティブな文章が書けそうな気がしてたんだけど「構造的聴取」のハードルが思った以上に高かった。ので恐らくアドルノの本義とは多少ずらした形で、そして「断片的聴取」とか「軽やかな聴取」とも異なった形で「構造的聴取」(名前は変えるかもだけど)を再配置するような形になるんじゃないかと。

これから読む

遠藤薫、2009、『メタ複製技術時代の文化と政治 社会変動をどうとらえるか 2』勁草書房
木本玲一、2005、「ワークショップ DJ/クラブ文化研究の現在」『ポピュラー音楽研究』9: 46-49。
武邑光裕、1990、「ハウス・サウンドの情報戦略――サンプリング・リミックスとクラブ・フォース」『ユリイカ』22(5): 94-99。
Frith, Simon, 1981, "Sound effects : youth, leisure, and the politics of rock'n'roll".
渡辺裕、1989、『聴衆の誕生――ポスト・モダン時代の音楽文化』春秋社。

境界線の物語――『はつゆきさくら』

感想

 私事で恐縮なのですが、私は高校を中退していまして、ついでに潜り込んだ大学でも留年がほぼ確定しており、その身からすると卒業をあの手この手で勧めてくるこの作品は体験版やってる最中から非常に死にたくさせてくれたのだけれど、でもそこそこ楽しそうだからという理由で手に取ったのでした。実際プレイしてみると予想以上に素晴らしい作品でした。以下ネタバレ全開で『はつゆきさくら』という作品についてあれやこれやと書いています。
 個別ルートについてまだ書いてなかったりするけどそこそこ出来上がったので一旦ここでアップします。

卒業する、ということ。

 『はつゆきさくら』は卒業ゲーなのだけど、この作品における「卒業」とはどのようなものであるかは下の引用が最も端的に示している。

「卒業なんて、ただの区切りだろ。何の意味があるんだか」
「区切りで、ゴールだから、だよ
くだらない、つまらないことだと思えたものも。本当は、その根っこには、とても純粋な綺麗なものがあるのかもしれない
時を過ぎればそういうことに、気づくのかもしれない
前に進んで振り返ってみたときこそ、当時は何かに曇っていた風景がやっと、明晰に眺めることが出来るのかも知れない
だから進んで、やり通して……その時こそ、振り返ることが大切なんだよ
自分と、全ての懐かしい人たちに報いるために」
――Chapter5 12月25日

 この主題は、桜TRUEルートにおける初雪の卒業まで繰り返し何度も反復される。

「……
 桜
 こうして……思い返したりしてると
 は。どれもこれも悪くない思い出に見えてくるから、詐欺みたいじゃねぇか。
 ……
 そういう、ことなのかなぁ」

前に進んで振り返ってみたときこそ、当時は何かに曇っていた風景がやっと、明晰に眺めることが出来るのかも知れない。
だから進まなければならないのかもしれない。
自分と、全ての懐かしい人たちに報いるために。
――Chapter29 GhostGraduation

 ところでボリス・ウスペンスキーによれば、芸術作品における〈枠〉とは、「現実の世界から表現されたものの世界に移る移行の過程」であり、この「境界こそが、記号による表現を成り立たせもする」(「芸術テキストの《枠》」北岡誠司訳 傍点省略)。知っての通り、とりわけ前衛芸術と呼ばれる作品群にはこの〈枠〉それ自体に挑んだものが多くある。結論を先取りしていえば『はつゆきさくら』は、この〈枠〉としての卒業、あるいは卒業という〈枠〉が自身で自身をつなぎ替え、作り替え、作り上げつつ、学園生活という〈枠〉に詰め込まれた風景をもまた読み換え、組み替え、汲み上げ、組み上げていく行為を描こうとした作品であるといえる。
 芸術作品における〈枠〉は作品の「外部」(額縁・調性)にも「内部」(構図・旋律)にも存在する。そして、芸術の「外部」、私たちが生きるこの時間にも、〈枠〉は存在しうる。

私たちが日常継起しているある事件に、意味を感じ、その意味を意識して語る場合には、その事件は始めと終りで区切られる。〔…〕つまり始めと終りが意味づけられて構成されているということが、虚構の時間の本質であるといえよう。(川端柳太郎『小説と時間』)

 私たちは〈終り〉を得てから〈始め〉を発見することしかできない、言い換えれば、〈終り〉に至ることで初めて〈始め〉から〈終り〉という〈枠〉に囲われた出来事の全てを得ることが出来る。より正確にいうならば、多少逆説めいた言い方になるけれども、〈枠〉に囲われることで出来事が存在するようになる、時間は存在し得るとすれば「虚構の時間」としてしかあり得ない、とするべきかもしれない。
 この「虚構の時間」が最も率直なかたちで働くのが卒業ではないだろうか。ただ、卒業が〈終り〉で、入学が〈始め〉という対応は素朴に過ぎる。実感的にも、入学できた「から」卒業できた、というのは誤りではないにせよあまりに簡略に思われるだろう。3年間の「風景」の内に見出されるたくさんの具体的な〈始め〉の収束点として、卒業はある。
 実際には、例えば「手が当たってコップが落ちて割れた」といった単純な事件であっても〈始め〉は複数取ることが可能である(手が当たった、誰かがコップをそこに置いた、コップがガラス製だった、地球に万有引力が存在した…)が、それらが問題になることはふつうない。卒業という事件をこうした出来事と異ならしめているのは〈始め〉と〈終り〉の間に在る時間の圧倒的な引き延ばしである。このことは、作中に繰り返し出現する「1095日」という数字によって象徴的に描かれている。
 引き延ばされ反復された「風景」の中から「純粋な綺麗なもの」を取り出すこと、〈始め〉を見出すこと、このことが卒業の持つもっとも大きな意味ではないだろうか。学校というものは、空間的にも時間的にも閉鎖的で内に閉じた〈枠〉としての性質を持つが、卒業という〈終り〉、あるいは境界は、それらを開くための補助線として働くことができる。このことは最後にまた詳しく触れます。

境界線の暴力とゴースト

 この作品に他の学園物作品との違いをもたらす最も大きな要素である「ゴースト」。ゴーストとは何か。

「さあ、河野君。私を討って
 今こそ、私もあなたも、生者になるか死者になるかを決定するの
 そうして、この身にとりついた呪いを克服して、冬を終えるべきなんだ」
――Chapter25 GhostLove

 ここでは多くのことが語られているが、とりあえずふたつのことを読み取っておくことができる。ひとつは、ゴーストが生者と死者の境界線上の存在であるということ。もうひとつは、「呪いを克服」することと「冬を終える」ことが重ね合わされて語られているということ。まずここでは、ひとつ目について考えていく。
 境界線。卒業もまた、ひとつの境界線であった。境界線は、暴力と密接に関わっている、あるいは、境界線自体が暴力であるといってもよい。それは例えば国境線について考えてみれば明らかであろう。境界線を引くこと自体が暴力であり、そして一度成立した境界線はそれ自体が暴力として機能し、また新たな暴力の根拠ともなる。だからこそフーコーが明らかにしたように、何が正常で何が異常であるかという境界線の決定と権力が強く結びつくのである。
 このことは作品中でも例えば内田市と川邊市の合併や、暗示的ではあるもののアキラの同性愛という「問題」などとして描かれている。前者は境界線を描き直す過程でまず暴力(爆破事件)が必要とされ、そして書き換わった後にもまたゴーストや初雪たちにとっての暴力として存在し続ける。後者においては、性という境界が第一に存在し、それを元にして分類された個々の関係を「正常」か「異常」かを区別する境界線が引かれているという入れ子構造になっている。とりわけ後者は「異性愛者の男性」が消費者の大部分を占める美少女ゲームにおいて挑戦的な問いかけであると言えるが、ここでは深入りしない。境界線の暴力性が作中にて様々なかたちで主題化されているということ、そのことを確認出来ればよい。
 ゴーストは、まさにそうした境界線の暴力が産み落とした存在である。これにはふたつの意味がある。ひとつは、内田市と川邊市の合併の過程に起きた事件によって生まれた呪いとしての存在であるということ。もうひとつは、それこそ全く暴力的に引かれる生者/死者という境界線から洩れ出した残余としての存在であるということ。そうして境界線から生まれたゴーストは境界の存在しない=〈終り〉が存在しない無限に引き延ばされた時間を生きることになる。

幻肢痛としての呪い

 呪いは実在する。生者と死者の境界線上に。*1

「だから、死者はしばしば生者にとりつくんだよ。物を言うことはないから。その妄念は無限に広がり、からみつく」
――Chapter22 3月22日

 呪いは、死者と生者が接続することで顕れる。それはあたかも幻肢痛のように。幻肢痛とは事故や病気などで四肢を失った患者が経験する、存在しないはずの部位に対する痛みであるが、これに似て、現世から存在を切り取られたはずの死者の痛みを、生者は時折幻覚する。その死者は既に失われた存在であるために生者の声は届かず、また死者が何か物語ることもない。ただそこには痛みだけがある。あるいは呪いは、死者がなし得た「かもしれなかった(しかし実際はそうはならなかった)」可能性の幻肢痛から生まれると考えてもよい。なし得たかもしれなかったが、〈いま・ここ〉には存在しない、その可能性こそが生者に痛みを幻覚させるのである。ただの痛みであれば麻酔で軽減することができるが、幻肢痛の場合麻酔すべき部位はすでに存在しない。幻覚であるからこそ強く痛む、という逆説がここにはある。
 この幻肢痛は存在する/しないという境界の機能不全であるといえるが、呪いとはそもそもが境界線の暴力によって産み出されたものであった。したがって線引きを例えどれだけ徹底したとしても、またその境界線から新たなゴーストが零れ落ち、本質的な問題の解決に至ることはない。どのようにすればこの痛みを鎮めることができるだろうか。

〈夢〉

 『はつゆきさくら』において、この問題の解決のために導入されるのが〈夢〉である。

「めぐる季節の中で、いつもあなたを見ていました
 ねぇ知っていますか
 生者が死者の夢を見るように
 死者が生者の夢を見ることだってあるんだよ」
――Chapter28 桜

もしも。
生者が、夜な夜な死者の夢に焦がれるように。
死者もまた、生者の夢を見ているのなら。
もしも、彼らが……俺の夢を見てくれているというのなら。
そんな、懐かしい人達のために。
生きてみても、いいかもしれないと……。
このクソったれな世界で。
――Chapter28 桜

 ここで桜が、初雪が言おうとしていることは何か。ここで言われていることは分かりやすいようで分かりにくい。幻想的で曖昧模糊としており意味を掴もうとしても手を摺り抜けてしまう。「死者が見る生者の夢」とは一体何を指すのか。そのことを考えるには先に、季節にとって境界線とはどのようなものであったかということについて考えてみるとよい。

季節の境界線――〈円〉と〈縁〉

 季節における境界とはどのようなものであっただろうか。『はつゆきさくら』は題名からもわかるとおり季節の話でもある。この題名からは「初雪/桜」すなわち「冬/春」の間に存在する境界線の越境への志向を読み取ることができ、実際物語の中でも、冬から春に至るということは他の様々な越境と重ね合わせて語られている。上の引用において「呪いの克服」と「冬を終えること」が重ね合わされていたことを思い出すとよい。したがってこの作品において季節の境界について考えることは、重ね合わされた他の境界について考えることでもある。結論を先取りして言えば、季節における境界は上で見てきたような境界の暴力性を解決しうる可能性を持っている。それはすなわち、あの境界に存在するゴースト、呪い、幻肢痛を鎮めることのできる可能性である。
 季節の境界をこれまで見てきた境界と異ならしめている要素は端的に言ってふたつある。ひとつは〈円〉であり、もうひとつは〈縁〉である。〈円〉とは言うまでもなく春夏秋冬が巡り来るという円環的時間のことである。円環とはつまり、境界を隔てた彼岸のもっともあちら側と此岸のもっともこちら側が接続することである。もちろん、今年の春は去年の春とも来年の春とも異なる。桜の木は去年より成長しているだろうし季節をともに過ごす人も入れ替わっているということもあるだろう。しかしこのことは、季節による時間を円環として表現することの矛盾を示すものではない。むしろ、姿形が異なる〈あの時あの場所〉と〈いま・ここ〉を「春」という概念で結びつける力こそ、季節がもつ円環性の顕れであるということができる。季節は螺旋を描く。私たちは円環と時間的な遠近の差によって過去・現在・未来の「春」を互いに接する時間としてみることができる。螺旋階段を真上から見下ろした場合を考えてみよ。
 この性質は先に挙げた〈縁〉とも関わっている。〈縁〉とは異なるもの同士を結びつける力である。元来境界線とは「こちら」と「あちら」を切り離すものであったはずだが、螺旋としての季節の比喩を経た今となっては、境界線を〈縁〉として捉えるという言い方もことさら奇異に響くことはないだろう。上では「あの春」と「この春」の〈縁〉について書いたが、「春」と「夏」といった異なる季節同士についても〈縁〉は見出すことができる。そもそもなぜ季節は4つなのか。実際、雨季と乾季しかない地域もあれば、古代中国において季節を72に区切る方式が考案されたこともある。現代の日本においても、立春や大暑といった二十四節気はそれなりに用いられている。それでもあえて季節を4つに区切るのは強いて言えば利便上の理由からであり、それ以上でも以下でもない。利便上。季節を4つに区切ることの利便とはなんだろうか。第一にそれは「四季」それぞれを鮮やかに感じられることだろう。例えば1年を2つのみに区切るとして春と夏を同じものと見なすのは難しいし、逆に72の季節をそれぞれに感じることも難しい。春の美しさは、春を冬とも夏とも異なる季節としてみることで成立している。つまり季節における境界線とは暴力的に彼岸と此岸を分けることによって引かれるのではなく、むしろ彼岸と此岸を〈縁〉として接続するために引かれている。
 長くなったのでここで一度まとめよう。季節の境界線は〈円〉と〈縁〉によって特徴付けることができる。〈円〉とは円環的時間のことであり、〈円〉によって同じ季節同士の〈縁〉が生まれ、異なる季節同士の境界線もまた切り離すよりむしろ両者を繋ぐ〈縁〉としてある。

〈夢〉II

 ここであの曖昧模糊とした〈夢〉に戻ることができる。桜が語った〈夢〉の意味とは、生者/死者の間に存在する境界線を季節の境界線のように、〈縁〉として、あちらとこちらを繋ぐための境界線として読み換えることではないだろうか。境界線「/」を呪いを生む暴力の印ではなく、前後を接続する懸け橋として捉えること。生者と死者の境界線と季節の境界線を重ね合わせて考えることで初めて下の場面の意味を了解することができる。

「さぁ。行こう」
「え?」
「懐かしい人達に会いに行こう
 冬と春の境目に、死者はよみがえる。一瞬だけ
 だから、一瞬だけ、会いに行こう」
――Chapter28 桜

 ここに描かれているのは、ささやかな奇跡である。奇跡とは、メタレベルによるオブジェクトレベルのハッキングを前提とする。しかし、「神は死んだ」という言葉を引くまでもなく、私たちはもはや奇跡をナイーヴに信じることはできない。それでも、死者と生者の間にあったあの「/」を、同じレベルにある両者を繋ぐ〈縁〉として肯定することはできるのではないか。これは、奇跡の話ではない。

卒業――はつゆきからさくらまで

 最初に触れた卒業の話に戻ろう。卒業とは、〈終り〉であり、〈枠〉の内部全てを手にするための儀式であった。卒業という境界線もまた、季節と重ね合わせてみることができる。卒業とは、以前と以後を切断するためではなく、〈縁〉として繋ぐための境界線である。
 もちろん、卒業以前/以後を繋ぐと言うことは、学校という〈枠〉の内部と外部を繋ぐということでもある。先に卒業が学校という閉鎖的な〈枠〉を開くといったのはこのためである。卒業という〈終り〉から過去の引き延ばされ反復された「風景」を「純粋な綺麗なもの」として読み換えることが、〈終り〉それ自身をも充実させる。その意味で、初雪たちの「卒業アルバム」の制作は象徴的である。卒業アルバムの編集とはまさに過去の「風景」を今に繋がる〈始め〉として切り取り、並べ直す作業であり、卒業という境界線が果たす役割の比喩でもある。初雪たちの「卒業アルバム」制作は、〈終り〉の視点を先取りして〈いま・ここ〉を充実させると同時に、過去の「風景」にも彩りを加えることに成功している。
 そして季節は〈円〉として巡る(ところで「たまきさくら」のたまきは玉樹ではなく環だったのではないかという妄想もあるけどどうでもいい)。それはつまり、卒業は〈終り〉であると同時に何かの〈始め〉でもあるということである。はつゆきからさくらまで。物語はこの〈始め〉と〈終り〉を〈枠〉として持つが、季節はこれまでも、これからも、巡ってゆく。

個別ルート感想

あとで書く…

細かい不満点とか

思いついた順

オートモードのショートカットキーがない

→ドラクリが元々F6か何かでオートにできたのに加えてパッチでAキーでもオートに入れるようにした(たぶん)のを思うとちょっと。

音楽のフェードアウトが速すぎ

→音楽は良かったけど、日常系のチャカポコした音楽だろうがオーケストラによるシリアスで壮大な音楽だろうが等しく0.数秒でフェードアウトするのは違和感があった

BGM回想のシステム

→BGM回想が1曲再生すると次の曲に行かず止まる=作業用BGMとして流しっぱなしにできない。特典のCDはあるけども。あとリピートモードもない。

真っ白背景

→背景が数カ所真っ白だったのがちょっと違和感。真っ白でも構わない場面もあったんだけど、それでも全部で数カ所だろうし数万円あれば、あるいはシナリオの段階で背景ある場所に居ることにすれば解決しただろうことを思うとイマイチ。

「……」という台詞が主人公以外でもボイス無し

→シリアスなシーンだと無言が雰囲気をつくることもあるのでちょっと残念。

まとめ

俺も卒業したかった!!!!
いい作品を、ありがとうございました。

*1:このあたりのことはskezyさんの『いろとりどりのセカイ』論にて詳しく丁寧に解説されているのでそちらを参照してください http://d.hatena.ne.jp/skezy/20120330/1333118601