プレイヤーを殺すための物語――『White Album 2』

  つらい、とてもつらい作品だった。死にたくなる。おかげで終わらせるまでに5ヶ月ほどかかってしまった。つらくてゲームを進められなくなった経験はこれが初めてだったのだけど、もう当分こんな経験はしたくない。しかしここまで死にたくさせる作品が素晴らしいことは言うまでもない。以下ではこの死にたさについて少し考えたい。当然ネタバレを含みます。(酔った勢いで書いてるのであとでいろいろ修正するかもしれません)
 

この死にたさはどこからくるか

 この作品の特徴としては死にたくなるということが真っ先に挙げられるけれど、その一方で世間*1では「主人公に感情移入・共感できない」という意見もよく目にする。この作品のようなギャルゲー・エロゲーでは実際はどうあれ*2、理念的には主人公とプレイヤーの同一化が志向されていることは言うまでもない。にもかかわらず、主人公・春希の物語を読んでこうも死にたくなるのは何故なのか。

主人公への共感?

 そもそもこの作品は主人公とプレイヤーを同一化させようとしていないのではないか。例えばそれは主人公ボイスの存在に見て取ることができる。この手のゲームでは主人公のボイスは収録していない作品の方が圧倒的に多い。にもかかわらずわざわざウザいからオフにしたと世間でいわれるほど癖のある主人公ボイスを収録したのか。
 また、このいたたまれない作品中でもいたたまれなさで上位に入るであろう、かずさTrueルートにおいてそれまでずっと付き合っていると思わせていた雪菜の両親に春希が謝りに行く場面について考えてみても同じことが導き出せる。このシーンでは小木曽家で春希が雪菜の両親に謝罪する場面と、雪菜の両親に頼まれ彼女の友人の朋が雪菜をファミレスに引き留める場面が順繰りに描かれる。春希に同一化したプレイヤーに苦痛を与えることを目的としているならば、雪菜たちの会話が挟まれるたび同一化が中断されるこの演出は明らかに失敗である。にもかかわらず、このシーンはやはり「作品中でもいたたまれなさで上位に入る」。

書かれないセリフ

 この作品ではところどころで、セリフとしては「……」としか書かれていないのにボイスでは小声で喋っていたり、書かれたセリフは途中で切られているのにボイスでは最後まで喋っているという珍しい演出が用いられている。次はこの演出について考えてみたい。
 この手のゲームでしばしば見られる要素として、「難聴主人公」と「ヒロイン視点」というものがある。簡単に説明しておくと、前者は他のキャラクターが何か(たいていは主人公への気持ち)を小声で呟いたのに対し「え、何か言ったか?」などと返す主人公を揶揄する専門用語であり、後者はふつう主人公視点で物語が進むゲームにおいて視点を変えヒロインの行動や気持ちを表現する手法をさす。
 両者はまったく異なるもののように見えるけれど、実際はどちらも「主人公へ(明示的に)伝達されないことを根拠に、隠された〈ほんもの〉の情報をプレイヤーに伝える」という点で同じ機能を持つ。しかしこれらは両刃の剣である。プレイヤーはヒロインの〈ほんもの〉の気持ちを知ることが出来る一方で、主人公とプレイヤーとが持っている情報の差異はプレイヤーの主人公への感情移入を難しくする。これが鈍感難聴主人公がしばしば批判される所以と考えられる。
 上で挙げた謝罪の場面が「失敗」であったのはこのためである。さらに言えば、先に挙げた場面のみならず、主人公がいない場でのヒロインやサブキャラクター達の会話は、一般的な水準よりもおそらく多く相当の頻度で描かれている。ここで考えなければならないのは、そのように高頻度で「ヒロイン視点」が導入されることで、単なる情報の提示を越えた働きを持つようになるのではないかということである。
 最初に挙げた小声の演出に戻ろう。このときプレイヤーは上でみた難聴主人公の例などと同様に主人公から引きはがされる。しかし、その一方で物語へはより深く関わることになる。なぜか。ボイスで語られた言葉を物語の中に位置づけるためには通常よりも積極的な態度(聴き方)が求められるからである。つまりここでは、プレイヤーが持っている、物語を読み手として構築するという立場が顕著に表れている。

プレイヤーはどこにいるか

 つまりこの作品において、プレイヤーは一般的にギャルゲー・エロゲーで求められているように主人公に同一化することは拒否されつつも、物語に関わることを強要されている。ちなみに上であえて触れはしなかったが、この手のゲームでは当たり前の存在である「選択肢」も物語に関わらせるための道具として機能しているだろう。
 このときプレイヤーはどこにいるのか。もとより完全にメタな位置=〈作者〉の位置に立つことはできない。とりわけ初回プレイであれば〈作者〉の描いた自分がいまだ知らない物語を浴びせられるより他になく、オールクリアしたとしても物語を好きに書き換える自由は与えられていないからである*3。そして主人公への同一化は拒否されており、かといってヒロインに同一化するには主人公視点であることが邪魔をする。つまりこの物語の中でプレイヤーは宙づりな立場を強要されているといえる。

〈自己〉と〈わたし〉

 ところで、ここまで「プレイヤー」という言葉を無頓着に使ってきたけれど、実際はさらにふたつに分けることができる。実際に肉体を持ち、ディスプレイに向かい、マウスをクリックする、ゲームの内には何ら関わることができない〈自己〉と、物語の中で宙づりにされる〈わたし〉の二者として。そして〈わたし〉は物語内においてだけでなく、〈自己〉-〈わたし〉-物語(内の諸要素)という関係においても引き裂かれる位置にある。
 この作品、White Album 2におけるつらさとは、この〈わたし〉が引き裂かれるつらさではないだろうか。上では〈わたし〉が物語内で確たる居場所を持つことができないことを確認したが、どのキャラクターとも十分に同一化できないということはつまり、それぞれ場面においてそれぞれのキャラクターに同一化しうるということでもある。それは、この陰惨な物語においては、もっとも陰惨さを最大化する立場でもある。なぜなら、それぞれの立場にはそれぞれの正しさがあるが、いずれも〈わたし〉は確たる理由として信じることができないからである。
 そして物語内だけでなく、メタな視点から物語を読み、どのような仕方でも介入することはできないことを知っている〈自己〉と〈わたし〉の間でも分裂は起こる。先に「物語を読み手として構築する」と述べた。このとき〈自己〉のうちには〈わたし〉が物語を構築している。つまり、〈わたし〉が物語の中に巻き込まれ傷ついている一方で、〈自己〉は自らが〈わたし〉達を傷付けているがゆえに傷付くのである。

恋愛がつくる〈世界〉

 恋愛というものは定義上「内」と「外」という区別を必要とする。区別なく誰彼構わず恋愛する、ということはありえない。つまり恋愛はその過程でひとつの〈世界〉をつくる。このシステムのもとで、上で見た〈わたし〉の分裂は最悪の凶悪さを発揮する。
 〈わたし〉を傷付ける他者は〈世界〉の外からやってくる。つまり、〈わたし〉の〈世界〉から排除された他者が〈世界〉の内に侵入してきたとき、〈わたし〉は傷つく。例えばかずさルートにおいて春希=〈わたし〉とかずさの〈世界〉へと侵入してくる雪菜がそうであるし、逆に同じかずさルートでも雪菜=〈わたし〉の〈世界〉に春希は抗いがたい魅力を持って侵入してくる。
 つまりこの作品、White Album 2は「恋愛ゲームで〈プレイヤー〉を傷付けるにはどうすればよいか」という問いへの現時点で最良・最悪と思われる答えを提示している。本当に最高のつらい作品だった。こんな作品はもう当分いいです。

*1:TwitterのTLと購読しているいくつかの2chまとめサイトといくつかのレビュー

*2:世間でしばしば言われる「共通ルートが一番楽しい」といった見方にはヒロインとの共感が強く作用していると考えられたりするだろうけどそれはともかく

*3:ここでいわゆる二次創作に意識が至るのは当然であるけれど、「二次創作」の「二次」性を支えているのは「一次創作」が正典として機能しているからにほかならない。