世界の終りと#FF0000の倫理――コーマック・マッカーシー『ザ・ロード』

コーマック・マッカーシー『ザ・ロード』を読んだ。この作品は(おそらくは核兵器で)滅びた世界において、父である「彼」とその子の「少年」が冬から逃れるため南の海へ向けて旅をする、ただそれだけの話である。しかし、だからこそ、心に響く。本稿は、作中における色彩表現を通して、この作品が描く倫理に接近することを目的とする。以下では(これまでのエロゲ批評とは違って)未読の人にも配慮していますが、批評の性質上ある程度のネタバレは含みます。

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この作品の世界観とそれを語る独特の文体については、長々と説明するよりも冒頭を読んでもらうのがいいだろう。

 森の夜の闇と寒さの中で目を醒ますと彼はいつも手を伸ばしてかたわらで眠る子供に触れた。夜は闇より深く昼は日一日と灰色を濃くしていく。まるで冷たい緑内障が世界を霞ませていくように。彼の手はかけがえのない息に合わせて柔らかく上下した。合成樹脂の防水シートを身体の上からのけ悪臭をはなつ服と毛布をまとった姿で立ちあがって少しでも光が見えていないかと東に目をやったが光はなかった。(5)*1

空は常に灰色に覆われ、人間には滅多に出会わない。たまに出会ったとしても彼ら以外の多くは「ホラー映画に出てくる歩く死人」(50)のように成り果てている。そんな作品全体を貫くキーワードとして、「善い者」(いいもの、原文では good guys)と「火を運ぶ」という2つがあり、そして両者は繋がっている。

 ぼくたちは誰も食べないよね?
 ああ、もちろんだ。
 飢えてもだよね?
 もう飢えてるじゃないか。
 さっきは違うことをいったよ。
 さっきは死なないっていったんだ。飢えてないとはいってない。
 それでもやらないんだね?
 ああ。やらない。
 どんなことがあっても。
 そう。どんなことがあっても。
 ぼくたちは善い者だから。
 そう。
 火を運んでるから。
 火を運んでるから。そうだ。
 わかった。(114-5)

果たして善い者であるとは、火を運ぶとはどういうことか。

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この作品を切実で倫理的たらしめている理由のひとつとして、色彩、とりわけ火の色である赤とオレンジ(以下、まとめて〈赤〉と表記*2)への感覚が挙げられる。英語で書かれたものも含めてこの作品について書かれた批評を調べてみたところ、多くの批評はこの点への言及を欠いていたが、色彩の象徴的効果に着目したものとして、Lidberg, Cecilia[2010], What is left when we're at the end of the world?: can Cormac McCarthy offer any kind of hope in his apocalyptic novel The Road?, p.12-3.*3 があった。Lidbergはまず冒頭部の、父が見つけた缶入りのコカ・コーラを少年に与える場面(21-2)に着目する。

 コカ・コーラ缶の発見はごちそうと喜びの短いひとときをもたらす。少年はたとえそれまでの人生でコカ・コーラ缶など目にしたことがないとしても、それがなにか特別なごちそうであることを理解するのである。その一方で、彼の父にとってそれは失われた世界を思い出させるリマインダーでもある。缶の明るい赤については一言も触れられていないが、しかし読者の頭の中には暗く灰色めいた世界との明確な対比が描かれる。赤という色は、短い喜びのひとときを彼らの生活に与えるだけではなく、歴史を通して炎の色として力や重要性と結びつけられてきた。コカコーラ缶の発見と赤という色の象徴的意味は、どこかに彼らのための未来があるかもしれないことを示唆している。その一方で、マッカーシーコカ・コーラをリマインダーとしても用いることで、私たちが自分たちに対して行ってきたことに対しても疑問を投げかけている。私たちの行いは幸せと喜びであったのだろうか? それとも本当の中身などない表面的な生でしかなかったのだろうか?(Lidberg 2010: p.12)*4

Lidbergはこの後、〈赤〉が現れる別の場面も引用して、そこにおいても生の問題が現れていると主張している。ここでLidbergの象徴的読解の当否について踏み込むことはしない。しかし、この〈赤〉という色がこの作品において重要な役割を担っていることは確かである。以下ではLidbergより内在的な方法で『ザ・ロード』における〈赤〉について考えてみたい。

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しかし作中で〈赤〉という色が直接言及されることは、火や炎以外についてはかなり少ない。ほとんど禁止されていると言ってもよい。このことは恐らく意図的であろう。その根拠のひとつとして挙げられるのが、彼が見る夢である。

 夢の中で彼の青白い花嫁が緑の葉むらの天蓋から出てきた。乳首には白い粘土が塗られ肋骨の形が白い塗料でなぞられていた。紗織りのワンピースを身につけ黒髪は結いあげて象牙や貝殻の櫛で留めてあった。微笑を浮かべて目を伏せていた。朝にはまた雪が降っていた。灰色の氷の小さな球が頭上の電線に並んでいた。(17)

彼は「たいそう色彩豊かな夢、これが死の呼びかけでなくてなんだろう」(19)と問う。この色彩はやはりコーラの缶と同様に、灰色の世界と鮮やかな対比を描く。しかしここで注目しなければならないのはその鮮やかさよりむしろ、これほど「色彩豊か」であるにも関わらず〈赤〉が存在しないという点である。論点を先取りして言えば、この「死の呼びかけ」じみた夢に〈赤〉が現れないのは必然性を持つ。

他にも例は挙げられる。〈赤〉を持つものとは何があるだろうか。たとえば太陽、たとえば血、たとえばリンゴ。しかし太陽は先に見たようにいまや灰色めいた光をぼんやりと放つことしかできない。そして血についても、「彼」が喀血しようとも、「彼」が銃で男の額を撃ち抜き血が「少年」に降りかかろうとも、「赤い血」という表現は用いられずコーラと同様端的に「血」と書かれるのみである。唯一血の色が描かれるのは男を撃った現場に戻って「落ち葉に黒くこびりついている乾いた血」(64)を見つけたときのみである。そしてリンゴもこの世界では〈赤〉などとうの昔に失っている。

林檎園を上り始めて途中で足をとめた。なにかを踏んだようだった。一歩下がって膝をつき両手で草をかき分けた。林檎だった。拾い上げて陽のもとに掲げた。固く茶色くしなびていた。布切れで拭いて歯を立ててみる。ぱさぱさでほとんど味が無い。それでも一応林檎だった。種からなにから丸一個食べた。(108)

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では、〈赤〉はどこにあるのだろうか。

 つねに思慮深くどんな突拍子もない出来事にも滅多に驚かない。みずからの滅亡を用意できるほど完璧に進化した生物。二人はバスローブ姿で窓辺に坐り蝋燭の明かりで真夜中の食事をしながら燃えている遠い都市を眺めた。その幾夜かのち彼女は乾電池式のランプの明かりを頼りに夫婦のベッドで出産した。食器洗い用の手袋。小さな後頭部が現れたときのありえないような光景。血にぬれた黒い直毛*5。胎便の異臭。彼女の叫び声は彼には何の意味もなかった。窓の外には募る寒さと地平線上の炎があるだけだった。生々とした裸の赤い身体を持ち上げて料理鋏でへその緒を切りタオルで息子をくるんだ。(54-5)

この一節はこの作品における〈赤〉を象徴している。それは都市を飲み込む炎である。血である。そして何より〈生〉である。ここで「赤い身体」と明記されているのは決して偶然や気まぐれではない。それは次の場面と対比することでよりいっそう明確になる。
以下は自分たちの跡をつけていた、妊婦を含む集団を隠れてやりすごし、逆に彼らのたき火の煙を目印に偵察へと来た場面である。

 二人は手をつないで小さな空き地に出ていった。ここにいた者たちはなにもかも持って行き炭火の上で串刺しにされている黒いものだけを残していた。彼が空き地の周辺に警戒の目を配っていると少年がぱっと首をめぐらして顔をうずめてきた。何事かと彼は急いで見た。どうした? なにがあった? 少年は首を振った。パパ、といった。彼はもう一度見てみた。少年が眼にしたのは首を切り落とされ内臓を抜かれ串に刺されて黒く焦げている人間の赤ん坊だった。(181)

ここで〈生〉の色としての〈赤〉と死の色としての黒が対比されているのは明らかであろう。しかし〈赤〉を〈生〉の象徴として平面的に解釈すべきではないことは、先の出産の場面における「燃えている遠い都市」「地平線上の炎」と反復された死のイメージをまとう表現、そしてこの赤ん坊もまた火に焼かれていることから理解できる。この〈赤〉の多義性は次の場面を読むことでよりいっそう明確になる。

 彼は朝眼を醒ますと毛布の中で身体を転がし木立のあいだから自分たちがやってきた道路を眺めるとちょうど四人の人間が横一列に並んでやってくるのが見えた。服はまちまちだが四人とも首に赤いスカーフを巻いていた。色は赤かオレンジ色でオレンジ色だとしても限りなく赤に近かった。彼は少年の頭に手を載せた。しーっ、といった。
〔…〕彼は地面にぴたりと伏せて腕先越しに道を見つめた。スニーカーを履いた一群がやってきた。長さ三フィートの鉄パイプに革を巻きつけたものを手にしていた。鉄パイプにとりつけた紐を手首に巻いている。鉄パイプの中には内部の空洞に鎖を通しその鎖の先に色々な攻撃道具をとりつけたものもあった。〔…〕続く密集隊形を組んだ男たちは帯状の布を飾った槍で武装していた〔…〕そのうしろからやってくる数台の荷車は身体に引き具を着けた奴隷たちがひき戦利品を山積みにしており次に続く女たちは恐らく十数人いて中には妊娠している者もいたがしんがりは女たちを補う性の奴隷である稚児たちでこの寒さの中でもろくな衣服を与えられず犬の首輪を着けられ二人ずつ首輪を繋がれていた。その行列が通過していった。二人は伏せたまま耳をすましていた。
 行っちゃった、パパ?
 うん、行ってしまった。
 パパは見た?
 ああ。
 悪者だった?
 そう、悪者だった。
 悪者、おおぜいいたね。
 おおぜいいた、でももう行ってしまった。(81-2)

「四人とも首に赤いスカーフを巻いていた。色は赤かオレンジ色でオレンジ色だとしても限りなく赤に近かった」という表現は、これまで見てきたように〈赤〉が厳しく制限されているこの作品にあってほとんど異常である。ここでは出産の場面で〈赤〉と〈生〉が結びつけられたのと同程度ないしはそれ以上の強度で「悪者」と〈赤〉が結びつけられている。

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この〈赤〉の多義性は、火の両義性を内包している。火の両義性とは、訳者あとがきで黒原敏行も指摘しているが、彼らがたき火によって暗黒の夜に光と暖を得る場面は何度も描かれている(また、色々な理由で火を得られず凍える場面も繰り返し訪れる)が、他方この終末をもたらしたものも(おそらくは)核兵器という火であるという点に端的に表れている。

にもかかわらず、「火を運ぶこと」と「善い者」であることは接続される。なぜか。

いや、この問いは成立しえないのだ。「少年」にとって、「火を運ぶこと」と「善い者」とは分かちがたく結びついている。それは結末部における「男」との会話からも見て取ることができる。したがって、ここで問うとしたら、「火を運ぶこと」と「善い者」が接続されるような倫理のあり方はどのようであるか、といったことについてであろう。この問いへの答えは読者がそれぞれに持ちうるだろう。ここで指摘しておけることは、火すなわち〈赤〉が決して一義的なものでなかったように、「善い者」であることも決して一義的なものにはなり得ないだろうということである。「善い者」であることが「火を運ぶこと」であり、「火を運ぶ」ことが「善い者」であるような関係。両者は互いに関係しあう。希望とはこの関係にこそ見出すことができるのではないか。

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さてこそ以上、『ザ・ロード』の〈赤〉と倫理についての考察はこれで終わりである。いろいろな〈赤〉について書いたが、他の色や火の〈赤〉についてはあまり詳しく触れることができなかった。Lidberg(2010: p.12-3)は青の象徴的意味に関しても考察を行っているので興味のある人はそちらを読んで欲しい。

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WA2のエントリを読んで知ってくれた人でここまで読んでくれる人は果たしているのだろうか。ここまで読んでくださった方には最大限の感謝を。
Twitter(@otoQt)は一心上の理由で休業してますがhttp://tasoga.re/というWebチラシの裏でいろいろ書いてます。よろしく。

*1:以下カッコ内に数字のみで『ザ・ロード』邦訳のページ数を示す。

*2:作中でたき火はオレンジ色で表される。しかしここでは赤とオレンジの積極的な区別を行わない。区別による恩恵より、区別しないことのそれのほうが大きいと考えられるためである。また、Lidbergもこの区別を積極的には行っていない。

*3:http://epubl.ltu.se/1402-1773/2010/044/index-en.html

*4:あまりうまく訳せてないので可能なら原文にあたってください

*5:この一節は前後との関係を鑑みても「彼」が「少年」の誕生に立ち会った場面と考えるのが自然である。しかし注意深く読めば、「少年」の髪を切った際、「床に落ちた金色の髪」(135)という表現があることに気付く。この不整合とみられる箇所を埋めるにはいくつか方法が考えられるだろうが、もっともこの新生児が誰であれ論旨にはほとんど影響しないと思われるので、この点についてはこれ以上深入りせず指摘のみに留めておく。