境界線の物語――『はつゆきさくら』

 私事で恐縮なのですが、私は高校を中退していまして、ついでに潜り込んだ大学でも留年がほぼ確定しており、その身からすると卒業をあの手この手で勧めてくるこの作品は体験版やってる最中から非常に死にたくさせてくれたのだけれど、でもそこそこ楽しそうだからという理由で手に取ったのでした。実際プレイしてみると予想以上に素晴らしい作品でした。以下ネタバレ全開で『はつゆきさくら』という作品についてあれやこれやと書いています。
 個別ルートについてまだ書いてなかったりするけどそこそこ出来上がったので一旦ここでアップします。

卒業する、ということ。

 『はつゆきさくら』は卒業ゲーなのだけど、この作品における「卒業」とはどのようなものであるかは下の引用が最も端的に示している。

「卒業なんて、ただの区切りだろ。何の意味があるんだか」
「区切りで、ゴールだから、だよ
くだらない、つまらないことだと思えたものも。本当は、その根っこには、とても純粋な綺麗なものがあるのかもしれない
時を過ぎればそういうことに、気づくのかもしれない
前に進んで振り返ってみたときこそ、当時は何かに曇っていた風景がやっと、明晰に眺めることが出来るのかも知れない
だから進んで、やり通して……その時こそ、振り返ることが大切なんだよ
自分と、全ての懐かしい人たちに報いるために」
――Chapter5 12月25日

 この主題は、桜TRUEルートにおける初雪の卒業まで繰り返し何度も反復される。

「……
 桜
 こうして……思い返したりしてると
 は。どれもこれも悪くない思い出に見えてくるから、詐欺みたいじゃねぇか。
 ……
 そういう、ことなのかなぁ」

前に進んで振り返ってみたときこそ、当時は何かに曇っていた風景がやっと、明晰に眺めることが出来るのかも知れない。
だから進まなければならないのかもしれない。
自分と、全ての懐かしい人たちに報いるために。
――Chapter29 GhostGraduation

 ところでボリス・ウスペンスキーによれば、芸術作品における〈枠〉とは、「現実の世界から表現されたものの世界に移る移行の過程」であり、この「境界こそが、記号による表現を成り立たせもする」(「芸術テキストの《枠》」北岡誠司訳 傍点省略)。知っての通り、とりわけ前衛芸術と呼ばれる作品群にはこの〈枠〉それ自体に挑んだものが多くある。結論を先取りしていえば『はつゆきさくら』は、この〈枠〉としての卒業、あるいは卒業という〈枠〉が自身で自身をつなぎ替え、作り替え、作り上げつつ、学園生活という〈枠〉に詰め込まれた風景をもまた読み換え、組み替え、汲み上げ、組み上げていく行為を描こうとした作品であるといえる。
 芸術作品における〈枠〉は作品の「外部」(額縁・調性)にも「内部」(構図・旋律)にも存在する。そして、芸術の「外部」、私たちが生きるこの時間にも、〈枠〉は存在しうる。

私たちが日常継起しているある事件に、意味を感じ、その意味を意識して語る場合には、その事件は始めと終りで区切られる。〔…〕つまり始めと終りが意味づけられて構成されているということが、虚構の時間の本質であるといえよう。(川端柳太郎『小説と時間』)

 私たちは〈終り〉を得てから〈始め〉を発見することしかできない、言い換えれば、〈終り〉に至ることで初めて〈始め〉から〈終り〉という〈枠〉に囲われた出来事の全てを得ることが出来る。より正確にいうならば、多少逆説めいた言い方になるけれども、〈枠〉に囲われることで出来事が存在するようになる、時間は存在し得るとすれば「虚構の時間」としてしかあり得ない、とするべきかもしれない。
 この「虚構の時間」が最も率直なかたちで働くのが卒業ではないだろうか。ただ、卒業が〈終り〉で、入学が〈始め〉という対応は素朴に過ぎる。実感的にも、入学できた「から」卒業できた、というのは誤りではないにせよあまりに簡略に思われるだろう。3年間の「風景」の内に見出されるたくさんの具体的な〈始め〉の収束点として、卒業はある。
 実際には、例えば「手が当たってコップが落ちて割れた」といった単純な事件であっても〈始め〉は複数取ることが可能である(手が当たった、誰かがコップをそこに置いた、コップがガラス製だった、地球に万有引力が存在した…)が、それらが問題になることはふつうない。卒業という事件をこうした出来事と異ならしめているのは〈始め〉と〈終り〉の間に在る時間の圧倒的な引き延ばしである。このことは、作中に繰り返し出現する「1095日」という数字によって象徴的に描かれている。
 引き延ばされ反復された「風景」の中から「純粋な綺麗なもの」を取り出すこと、〈始め〉を見出すこと、このことが卒業の持つもっとも大きな意味ではないだろうか。学校というものは、空間的にも時間的にも閉鎖的で内に閉じた〈枠〉としての性質を持つが、卒業という〈終り〉、あるいは境界は、それらを開くための補助線として働くことができる。このことは最後にまた詳しく触れます。

境界線の暴力とゴースト

 この作品に他の学園物作品との違いをもたらす最も大きな要素である「ゴースト」。ゴーストとは何か。

「さあ、河野君。私を討って
 今こそ、私もあなたも、生者になるか死者になるかを決定するの
 そうして、この身にとりついた呪いを克服して、冬を終えるべきなんだ」
――Chapter25 GhostLove

 ここでは多くのことが語られているが、とりあえずふたつのことを読み取っておくことができる。ひとつは、ゴーストが生者と死者の境界線上の存在であるということ。もうひとつは、「呪いを克服」することと「冬を終える」ことが重ね合わされて語られているということ。まずここでは、ひとつ目について考えていく。
 境界線。卒業もまた、ひとつの境界線であった。境界線は、暴力と密接に関わっている、あるいは、境界線自体が暴力であるといってもよい。それは例えば国境線について考えてみれば明らかであろう。境界線を引くこと自体が暴力であり、そして一度成立した境界線はそれ自体が暴力として機能し、また新たな暴力の根拠ともなる。だからこそフーコーが明らかにしたように、何が正常で何が異常であるかという境界線の決定と権力が強く結びつくのである。
 このことは作品中でも例えば内田市と川邊市の合併や、暗示的ではあるもののアキラの同性愛という「問題」などとして描かれている。前者は境界線を描き直す過程でまず暴力(爆破事件)が必要とされ、そして書き換わった後にもまたゴーストや初雪たちにとっての暴力として存在し続ける。後者においては、性という境界が第一に存在し、それを元にして分類された個々の関係を「正常」か「異常」かを区別する境界線が引かれているという入れ子構造になっている。とりわけ後者は「異性愛者の男性」が消費者の大部分を占める美少女ゲームにおいて挑戦的な問いかけであると言えるが、ここでは深入りしない。境界線の暴力性が作中にて様々なかたちで主題化されているということ、そのことを確認出来ればよい。
 ゴーストは、まさにそうした境界線の暴力が産み落とした存在である。これにはふたつの意味がある。ひとつは、内田市と川邊市の合併の過程に起きた事件によって生まれた呪いとしての存在であるということ。もうひとつは、それこそ全く暴力的に引かれる生者/死者という境界線から洩れ出した残余としての存在であるということ。そうして境界線から生まれたゴーストは境界の存在しない=〈終り〉が存在しない無限に引き延ばされた時間を生きることになる。

幻肢痛としての呪い

 呪いは実在する。生者と死者の境界線上に。*1

「だから、死者はしばしば生者にとりつくんだよ。物を言うことはないから。その妄念は無限に広がり、からみつく」
――Chapter22 3月22日

 呪いは、死者と生者が接続することで顕れる。それはあたかも幻肢痛のように。幻肢痛とは事故や病気などで四肢を失った患者が経験する、存在しないはずの部位に対する痛みであるが、これに似て、現世から存在を切り取られたはずの死者の痛みを、生者は時折幻覚する。その死者は既に失われた存在であるために生者の声は届かず、また死者が何か物語ることもない。ただそこには痛みだけがある。あるいは呪いは、死者がなし得た「かもしれなかった(しかし実際はそうはならなかった)」可能性の幻肢痛から生まれると考えてもよい。なし得たかもしれなかったが、〈いま・ここ〉には存在しない、その可能性こそが生者に痛みを幻覚させるのである。ただの痛みであれば麻酔で軽減することができるが、幻肢痛の場合麻酔すべき部位はすでに存在しない。幻覚であるからこそ強く痛む、という逆説がここにはある。
 この幻肢痛は存在する/しないという境界の機能不全であるといえるが、呪いとはそもそもが境界線の暴力によって産み出されたものであった。したがって線引きを例えどれだけ徹底したとしても、またその境界線から新たなゴーストが零れ落ち、本質的な問題の解決に至ることはない。どのようにすればこの痛みを鎮めることができるだろうか。

〈夢〉

 『はつゆきさくら』において、この問題の解決のために導入されるのが〈夢〉である。

「めぐる季節の中で、いつもあなたを見ていました
 ねぇ知っていますか
 生者が死者の夢を見るように
 死者が生者の夢を見ることだってあるんだよ」
――Chapter28 桜

もしも。
生者が、夜な夜な死者の夢に焦がれるように。
死者もまた、生者の夢を見ているのなら。
もしも、彼らが……俺の夢を見てくれているというのなら。
そんな、懐かしい人達のために。
生きてみても、いいかもしれないと……。
このクソったれな世界で。
――Chapter28 桜

 ここで桜が、初雪が言おうとしていることは何か。ここで言われていることは分かりやすいようで分かりにくい。幻想的で曖昧模糊としており意味を掴もうとしても手を摺り抜けてしまう。「死者が見る生者の夢」とは一体何を指すのか。そのことを考えるには先に、季節にとって境界線とはどのようなものであったかということについて考えてみるとよい。

季節の境界線――〈円〉と〈縁〉

 季節における境界とはどのようなものであっただろうか。『はつゆきさくら』は題名からもわかるとおり季節の話でもある。この題名からは「初雪/桜」すなわち「冬/春」の間に存在する境界線の越境への志向を読み取ることができ、実際物語の中でも、冬から春に至るということは他の様々な越境と重ね合わせて語られている。上の引用において「呪いの克服」と「冬を終えること」が重ね合わされていたことを思い出すとよい。したがってこの作品において季節の境界について考えることは、重ね合わされた他の境界について考えることでもある。結論を先取りして言えば、季節における境界は上で見てきたような境界の暴力性を解決しうる可能性を持っている。それはすなわち、あの境界に存在するゴースト、呪い、幻肢痛を鎮めることのできる可能性である。
 季節の境界をこれまで見てきた境界と異ならしめている要素は端的に言ってふたつある。ひとつは〈円〉であり、もうひとつは〈縁〉である。〈円〉とは言うまでもなく春夏秋冬が巡り来るという円環的時間のことである。円環とはつまり、境界を隔てた彼岸のもっともあちら側と此岸のもっともこちら側が接続することである。もちろん、今年の春は去年の春とも来年の春とも異なる。桜の木は去年より成長しているだろうし季節をともに過ごす人も入れ替わっているということもあるだろう。しかしこのことは、季節による時間を円環として表現することの矛盾を示すものではない。むしろ、姿形が異なる〈あの時あの場所〉と〈いま・ここ〉を「春」という概念で結びつける力こそ、季節がもつ円環性の顕れであるということができる。季節は螺旋を描く。私たちは円環と時間的な遠近の差によって過去・現在・未来の「春」を互いに接する時間としてみることができる。螺旋階段を真上から見下ろした場合を考えてみよ。
 この性質は先に挙げた〈縁〉とも関わっている。〈縁〉とは異なるもの同士を結びつける力である。元来境界線とは「こちら」と「あちら」を切り離すものであったはずだが、螺旋としての季節の比喩を経た今となっては、境界線を〈縁〉として捉えるという言い方もことさら奇異に響くことはないだろう。上では「あの春」と「この春」の〈縁〉について書いたが、「春」と「夏」といった異なる季節同士についても〈縁〉は見出すことができる。そもそもなぜ季節は4つなのか。実際、雨季と乾季しかない地域もあれば、古代中国において季節を72に区切る方式が考案されたこともある。現代の日本においても、立春や大暑といった二十四節気はそれなりに用いられている。それでもあえて季節を4つに区切るのは強いて言えば利便上の理由からであり、それ以上でも以下でもない。利便上。季節を4つに区切ることの利便とはなんだろうか。第一にそれは「四季」それぞれを鮮やかに感じられることだろう。例えば1年を2つのみに区切るとして春と夏を同じものと見なすのは難しいし、逆に72の季節をそれぞれに感じることも難しい。春の美しさは、春を冬とも夏とも異なる季節としてみることで成立している。つまり季節における境界線とは暴力的に彼岸と此岸を分けることによって引かれるのではなく、むしろ彼岸と此岸を〈縁〉として接続するために引かれている。
 長くなったのでここで一度まとめよう。季節の境界線は〈円〉と〈縁〉によって特徴付けることができる。〈円〉とは円環的時間のことであり、〈円〉によって同じ季節同士の〈縁〉が生まれ、異なる季節同士の境界線もまた切り離すよりむしろ両者を繋ぐ〈縁〉としてある。

〈夢〉II

 ここであの曖昧模糊とした〈夢〉に戻ることができる。桜が語った〈夢〉の意味とは、生者/死者の間に存在する境界線を季節の境界線のように、〈縁〉として、あちらとこちらを繋ぐための境界線として読み換えることではないだろうか。境界線「/」を呪いを生む暴力の印ではなく、前後を接続する懸け橋として捉えること。生者と死者の境界線と季節の境界線を重ね合わせて考えることで初めて下の場面の意味を了解することができる。

「さぁ。行こう」
「え?」
「懐かしい人達に会いに行こう
 冬と春の境目に、死者はよみがえる。一瞬だけ
 だから、一瞬だけ、会いに行こう」
――Chapter28 桜

 ここに描かれているのは、ささやかな奇跡である。奇跡とは、メタレベルによるオブジェクトレベルのハッキングを前提とする。しかし、「神は死んだ」という言葉を引くまでもなく、私たちはもはや奇跡をナイーヴに信じることはできない。それでも、死者と生者の間にあったあの「/」を、同じレベルにある両者を繋ぐ〈縁〉として肯定することはできるのではないか。これは、奇跡の話ではない。

卒業――はつゆきからさくらまで

 最初に触れた卒業の話に戻ろう。卒業とは、〈終り〉であり、〈枠〉の内部全てを手にするための儀式であった。卒業という境界線もまた、季節と重ね合わせてみることができる。卒業とは、以前と以後を切断するためではなく、〈縁〉として繋ぐための境界線である。
 もちろん、卒業以前/以後を繋ぐと言うことは、学校という〈枠〉の内部と外部を繋ぐということでもある。先に卒業が学校という閉鎖的な〈枠〉を開くといったのはこのためである。卒業という〈終り〉から過去の引き延ばされ反復された「風景」を「純粋な綺麗なもの」として読み換えることが、〈終り〉それ自身をも充実させる。その意味で、初雪たちの「卒業アルバム」の制作は象徴的である。卒業アルバムの編集とはまさに過去の「風景」を今に繋がる〈始め〉として切り取り、並べ直す作業であり、卒業という境界線が果たす役割の比喩でもある。初雪たちの「卒業アルバム」制作は、〈終り〉の視点を先取りして〈いま・ここ〉を充実させると同時に、過去の「風景」にも彩りを加えることに成功している。
 そして季節は〈円〉として巡る(ところで「たまきさくら」のたまきは玉樹ではなく環だったのではないかという妄想もあるけどどうでもいい)。それはつまり、卒業は〈終り〉であると同時に何かの〈始め〉でもあるということである。はつゆきからさくらまで。物語はこの〈始め〉と〈終り〉を〈枠〉として持つが、季節はこれまでも、これからも、巡ってゆく。

個別ルート感想

あとで書く…

細かい不満点とか

思いついた順

オートモードのショートカットキーがない

→ドラクリが元々F6か何かでオートにできたのに加えてパッチでAキーでもオートに入れるようにした(たぶん)のを思うとちょっと。

音楽のフェードアウトが速すぎ

→音楽は良かったけど、日常系のチャカポコした音楽だろうがオーケストラによるシリアスで壮大な音楽だろうが等しく0.数秒でフェードアウトするのは違和感があった

BGM回想のシステム

→BGM回想が1曲再生すると次の曲に行かず止まる=作業用BGMとして流しっぱなしにできない。特典のCDはあるけども。あとリピートモードもない。

真っ白背景

→背景が数カ所真っ白だったのがちょっと違和感。真っ白でも構わない場面もあったんだけど、それでも全部で数カ所だろうし数万円あれば、あるいはシナリオの段階で背景ある場所に居ることにすれば解決しただろうことを思うとイマイチ。

「……」という台詞が主人公以外でもボイス無し

→シリアスなシーンだと無言が雰囲気をつくることもあるのでちょっと残念。

まとめ

俺も卒業したかった!!!!
いい作品を、ありがとうございました。

*1:このあたりのことはskezyさんの『いろとりどりのセカイ』論にて詳しく丁寧に解説されているのでそちらを参照してください http://d.hatena.ne.jp/skezy/20120330/1333118601