クラブの社会学・前哨戦

引きこもってて暇だしクラブについて「好きなもの研究」でもするかーってことでちょこちょこ文献読んでます。こんなことやってるよって報告と自分のための整理を兼ねて文献の感想をば。

増田聡、2005、『その音楽の〈作者〉とは誰か――リミックス・産業・著作権』みすず書房

激ヤバ鬼マスト!クラブミュージックへ社会学的にアプローチするなら必須文献といえるのでは。2006年以降に書かれたクラブ論文でこれが引かれてないとちょっと構えてしまう。ここに詳しいことは書かないけれど、今回書く論文はこの本に大きく依ることになりそう。以下簡単に要約。

第I部でまずサラ・ソーントンの「ディスク文化/ライブ文化」という理念型を用いて、クラブミュージックの特異性について説明する。ロック・ポップスやクラシックなど「ライブ文化的」な音楽とは異なり、「ディスク文化」に属するクラブミュージックでは実際の演奏ではなく、スタジオでサンプリング・構築された「リアルな」サウンドこそが真正性(アウラ)の源となる。その制作行為はDJが行うパフォーマンスと「レコードを切って再構成する」というレベルにおいては連続的な行為だといえる。またリミックスにおいて冠される作者名について、オリジナルと全く別物になっていても、あるいは「作者」の作業がほとんどリミックスに反映されていなくても作者名は維持されるという点にクラブミュージックと従来の作者概念との折り合いの悪さがある。
第II部ではその従来の作者概念とはどのようなものだったのかを、音楽産業と著作権から論じる。ここは今回の興味と外れるので簡単に。西洋近代の芸術音楽の伝統をくむ語彙を用いて五線譜に表されうる形式構造について語るか、印象批評的な語彙を用いて聴覚像に対する比喩的な形容を用いて語るか、といった形でしか同定し得ない不確かな音楽という対象を、確かな一個のものであるように扱うための術がたとえば著作権制度である。
続いて第III部では、第II部を踏まえ、作者の機能――バルトが殺した「作者」とは誰だったのか――を論じる。バルトにせよ、バルトの作者概念がロマン主義的イデオロギーを抱えているとする批判者にせよ、「作者」がさまざまな関係を「作品」に対して結ぶ「単一の個人」であるという点には疑いを持たない。しかし実際には、クラブミュージックに限らずポップスにおいても――たとえば「作者」としてのバンドの他にバックバンドが加わりエンジニアがあるテイクと別のテイクを職人的作業により接続し「作品」を成立させた場合のように――「単一の個人」としての「作者」は仮構の存在であることが多い。そこにあるのは、フーコーが挙げた作者の諸概念「署名・所有関係・帰属関係・語りの主体」の分裂である。「単一の作者」とは、署名する「作者」や語る「作者」の姿を、「作品を帰属させる作者」へと事後的に還元させる言説的操作の産物でしかない。これが「拡散する〈作者〉」の現状である。

どうでもいいけど、この第I部で対象のジャンルを説明し、第II部で生産について、第III部で消費(増田本の場合、消費者にとって作者はどのようにあらわれるか)について論じるスタイルは、フリス『サウンドの力』かアドルノ「ポピュラー音楽について」あたりが元ネタなのではって気がする(どちらも参考文献に入っている)。

木本玲一、2005、「文化製品の流用をめぐる考察――DJ文化におけるサンプリング・ミュージック、オタク文化における二次創作を事例に」『ソシオロゴス』29: 250-263。

〈生産/消費モデル〉から〈生産=消費モデル〉への作者の立場を論じる点で上の増田本と基本的に同様の立場。確か動ポモの時点でサンプリングとかリミックスとか言ってたような気がする(あいまい)し、この2つの文化の類似性はまぁ。

藤田真文編、2011、『メディアの卒論――テーマ・方法・実際』ミネルヴァ書房

ある音楽アーティストの大ファンでCDを全て持っているので、卒論テーマに選んだ。ところがいざ書きだそうとすると、アーティストの楽曲が感動的だということ以外のことが書けない。原稿用紙二枚くらい書いて、すぐに筆が止まってしまった……ということになりがちです

前書きのこれがあるあるすぎる。Twitterでこの部分の引用が流れてきて読むことにしたのでした。個人的にはもうちょっとぽわっとした理念的なところを多く書いて欲しかったけど、これから卒論を書かなきゃいけないという人たちには有用な本であると思う。

南田勝也・辻泉編、2008、『文化社会学の視座――のめりこむメディア文化とそこにある日常の文化』ミネルヴァ書房

第I部「文化のとらえ方」、第II部「のめりこむメディア文化」、第III部「そこにある日常の文化」という構成の時点で勝ち。散漫になりがちな(島宇宙化しがちな)メディア研究に見通しを与えることに成功している。各論的な論文もそれぞれ第I部の総論との位置関係を考えつつ書かれているようで、「で?」という元も子もない疑問が浮かびにくい。
この中に含まれている永井純一「なぜロックフェスティバルに集うのか――音楽を媒介としたコミュニケーション」はロックフェスについての論文だけど、クラブカルチャーについて論じる際に批判的に引用することでクラブの特性をクリアに描けそうな気がする。

佐藤健二吉見俊哉編、2007、『文化の社会学』有斐閣

上記『視座』の類書。総論は総論、各論は各論で面白いのだけれど、総論と各論間・それぞれの各論間での繋がりが見えにくいという点で『視座』に及ばないように思う。しかしそれぞれの論考には力があり、特に編者二人により書かれた第1章「文化へのまなざし」と、田仲康博「風景――エキゾチック・オキナワの生産と受容」は興味深く読むことができた。

Adorno, Th W, 1962. =1999、高辻知義・渡辺健訳『音楽社会学序説』平凡社

すごく……エリート主義です……。永井論文を読む限りでは、クラブミュージックを触媒として「構造的聴取」と「断片的聴取」に対するディコンストラクティブな文章が書けそうな気がしてたんだけど「構造的聴取」のハードルが思った以上に高かった。ので恐らくアドルノの本義とは多少ずらした形で、そして「断片的聴取」とか「軽やかな聴取」とも異なった形で「構造的聴取」(名前は変えるかもだけど)を再配置するような形になるんじゃないかと。

これから読む

遠藤薫、2009、『メタ複製技術時代の文化と政治 社会変動をどうとらえるか 2』勁草書房
木本玲一、2005、「ワークショップ DJ/クラブ文化研究の現在」『ポピュラー音楽研究』9: 46-49。
武邑光裕、1990、「ハウス・サウンドの情報戦略――サンプリング・リミックスとクラブ・フォース」『ユリイカ』22(5): 94-99。
Frith, Simon, 1981, "Sound effects : youth, leisure, and the politics of rock'n'roll".
渡辺裕、1989、『聴衆の誕生――ポスト・モダン時代の音楽文化』春秋社。