物語をひらく――『すぴぱら STORY#01 Spring Has Come!』

ちょこちょこ寝落ちを挟みながら丸一日程度で終了。感想ではあるかもしれないけどレビューではない。
公式サイトにはろくに情報出てないし体験版は本当に体験できるだけだし、何の話なのかもわからずほとんどOPのアリスが可愛かったから買ったようなものなのですが結果的に大正解でした。以下ネタバレを含みます。


この物語のメインテーマのひとつは「記憶」でしょう。魔女アリスは、幸せな記憶を代償に願いを叶える。
記憶は――そうであるという実感には反して――決して個人的なものではありません。それは例えば自分が育った国の「歴史」といった大きなものだけではなく、私的な記憶にも当てはまります。例えば過去の出来事を、当時ともに体験したはずの相手と話しながら「思い出す」という体験に端的に表れているでしょう。そのとき記憶は、どちらか一方の脳内からのみ取り出されるわけではなく――まして「出来事自体」を参照するわけでもなく――間主体的にリアルタイムで紡がれていると言うことができます。こうした記憶の間主体性は、ミスコンを成功させるために魔法に頼り、そのために成功したミスコンという幸せな記憶を失った幸成の独白からも読み取ることができます。

まあ、ミスコンの記憶は全て失われているけれど、胸の中にはあたたかいものが満ちている。
忘れてしまったことがあっても、楽しかった時間そのものが消えたわけではない。
僕が忘れても、みんなは覚えてる。
桜さんは覚えてくれている。
だから――これでよかったのだと、本当にそう思う。

ここで「楽しかった時間そのもの」が存在する根拠として、みんなの、そして桜の記憶が挙げられていることは注目すべきでしょう。
ところでこの「みんな」に、プレイヤーを含めることもできる、という解釈は強引でしょうか。そう解釈することで、あるいはそうでなくても、他の誰でもないこの桜が覚えているということを出来事の根拠にすることで、いわゆるKanon問題――特定のヒロインのルートに入ることは他のヒロインを不幸の中に放置することではないかという問題――に対してひとつのアプローチが可能なのではないかと思いますが、この問題についてはきちんと議論を追っているわけではないので深入りしません。

記憶が失われる、という設定は同じminoriの作品である『ef』の千尋を思い出さずにはいられません。13時間以内の記憶を想起できないという症状を持つ千尋が取っていた戦略は二つ、13時間の記憶を失わないうちに絶えず出来事を想起することと、出来事を手帳に書き記すこと。しかし、『すぴぱら』ではほたるも幸成もその戦略は採用していません。記憶そのものが持ち去られてしまうので一つ目の戦略は取りえないとしても、とりわけほたるは、忘却した出来事を言葉で表されること自体を拒否しているように見えます。

「朝早くに家を出たことまでは覚えてるわ。で、次の記憶があなたの妹さんと昼食を作っているところなのよ」
「……午前中の記憶がほとんど消えてるね」
 数分、じゃなくて数時間単位で消えてしまっている。
「じゃあ、ほたるさんが朝から僕のところに――」
「待って。そこから先は言わないで」
 ほたるさんは真剣なまなざしを向けてきて、僕はなにも言えなくなってしまう。
「知りたくないのよ。だって――もう絶対に思い出せないことだから
 忘れたままにしておくのがいいのよ。幸成には悪いかもしれないけど……」

「思い出す」ことと「言われる」ことのギャップ。ここで前提とされているのは、ある過去を他者に伝える際に必然的に用いることになる、言語の不自由さではないでしょうか。これまで多くの文学者・言語学者・哲学者や社会学者などが指摘してきたように、言葉は決して透明な存在ではないし、自分が他者に何かを伝えるために存在するわけでもありません。そして記憶は言語の制約を受けざるをえない。
日記という形では残しえない、残しきれない剰余としての記憶。
こうした記憶の共有/分有の(不)可能性というのは、これまでトラウマと呼ばれるような負の記憶について論じられることが多かったのだけど、幸せな記憶についても同じことは言えるはずです。
そして、「物語」もまたその限界に留まらざるをえない。

エンタテインメントとは、心を動かすもの。
そして、心を動かす、感動する、という結果をもたらすアプローチは、ひとつだけではありません。
その中でminoriがこれまで探求してきたのは、前述の「“ 物語 ”としての世界が、“ 人と心 ”を動かす」感動を最大限に引き出そうというものでした。
そうした方向から創り出した作品でも、最終的に人が感情を動かされるのは、“ 人と心 ”が織り成す部分に他なりません。
それなら「“ 人と心 ”が、“ 物語 ”と世界を動かしている」という、ある種、逆のアプローチからのメッセージを、よりストレートに追求 / 表現し、形にできないだろうか。
そして、それこそが心を動かす、純粋な塊となり得るのではないか。

これが本作『すぴぱら』で、目指すものです。

http://www.minori.ph/lineup/sppl/lineintro.html

物語を作るということは、ひとつの〈世界〉を作るということでもあります。物語の限界を越えるためのひとつの手段として、その〈世界〉もまた、作り手と受け手の間にあらわれるものだと考えることはできるでしょう。東浩紀が『コンテンツの思想』で指摘した、『Wind』のOP冒頭における「悪質な感情移入装置」としての無意味な風景カットの連続というテクニック。「感情移入」とは作品に属するものでも、受け手に属するものでもない。この技法が今作のOPでも引き続き用いられているのは、そうした意識によるものかもしれません。
Twitterの活用や演出を見るに、物語を閉じることなく、作り手と受け手の相互行為の場として開くこと、これこそが『すぴぱら』が目指すものなのではないかと思いました。

ここまでべた褒めだったけど収録されていたOPが高画質版でなかったのはつくづく残念。しかしそれを差し引いても良いものでした。